大いなる西部(The Big Country):ウィリアム・ワイラー

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1958年のアメリカ映画「大いなる西部(The Big Country)」は、1940年の作品「西部の男」と並んでウィリアム・ワイラーの西部劇の傑作である。「西部の男」では、ゲーリー・クーパー演じる流れ者が、地元の悪徳農園主と対決するところを描いていたが、この映画の中でワイラーは、グレゴリー・ペック演じる流れ者が、対立する牧場主たちの間に入って、奮闘するところを描いている。同じく流れ者が、地元の有力者と対立するところを描いているわけだが、こちらは流れ者が対立の直接の当事者となることなく、第三者に止まるところに趣向がある。

その流れ者に二人の女がからむ。一人は婚約者だった女パットで、これは牧場主テリルの娘である。もう一人はパットの友人ジュリーで、彼女は荒廃した牧場を所有している。その牧場には貴重な水源があって、それをめぐってテリルともう一人の牧場主であるヘネシーが長年対立していた。

ペックははじめ、パットの婚約者としてテリルに肩入れしていたが、そのやり方に次第に疑念を持つようになる。彼はジュリーから牧場を買い取って、そこの水源を近隣の皆に平等に使わせようと考えるのだが、テリルのほうでは、自分で独占しようと考え、娘パットも父親のそうした考えに同調する。そんな考えにうんざりしたペックは、彼女ら父子に愛想をつかす。

そんな折にジュリーがヘネシーに拉致されたことを知り、ペックは彼女を取り戻しに行く。そこで思いがけないことに巻き込まれる。ヘネシーの長男と決闘するはめになったあげく、長男が卑怯な真似に及ぶに際して、父親のヘネシーが長男を射殺して、自分の命を救うのだ。それを見たペックは、ヘネシーが見かけによらず正義感の強い男だと納得する。それに比べるとテリルのほうが、欲に目がくらんだ悪党のように映るのだ。

こんなわけでこの映画は、牧場主たちの争いに流れ者のペックが巻き込まれるところを描きながら、彼自身は争いの当事者になることなく、牧場主同士が打ち合いをして相打ちになるところを描いている。彼らが相打ちになったところで、争いの種もなくなり、ペックとジュリーはめでたく結ばれると言う結末だ。

なんとも面白い筋書きである。普通西部劇では、正義の化身のような主人公の流れ者が、地元の悪党と対決するというパターンを取るのだが、この映画のなかでは、本物の悪党が出てこない。行きがかり上、ペックの婚約者であるパットとその家族の方が善玉で、彼らに対立するヘネシーのほうが悪党というふうに最初は思わせられるのだが、映画が進むにしたがって、実はテリルのほうが本当の悪党で、ヘネシーは無作法ではあるが気のいい正義漢であるという具合に逆転する。

いずれにしても、彼らを客観的に裁く規範はないというスタンスがこの映画の中では濃厚に見て取れる。ワイラーはテリルに「ここでは自分自身が法なのだ」と言わせているが、実際西部で生きていくためには、自分自身の力で自分の運命を切り開くほかに道はないというシニシズムがこの映画にはあふれている。

西部開拓時代のアメリカは、原住民との戦いのほかに、白人同志も互いにいがみ合うことが多かった。法とか、それを執行する警察とかいったものは、事実上機能しないも同然だったので、人々は自分自身の力に頼るほか方法がなかった。つまりホッブズのいう万人が万人に対して狼であるような社会だったわけだ。この映画はそうした無法地帯としての開拓時代のアメリカを、かなりストレートに描いている。結局は力がすべてを決定する。そういうシニシズムは、ワイラーの構えであったという側面も無論あるが、開拓時代のアメリカそのものがそうしたシニシズムの舞台だったように感じさせられる。

映画の中で地元の連中が流れ者のペックに向かって、しきりに「西部は広大な土地(The Big Country)だ」と言う。それに対してペックは、海に比べれば狭小だと答える。実際ペックは、自分の体でその土地を移動してみて、そこが思ったより狭いことを見出すのである。その狭い土地で、人間たちがつまらぬことでいがみ合っている。それは実にバカげたことだ。そういうニュアンスがこの映画のタイトル(The Big Country)には込められているようである。






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