必死の逃亡者(The Desperate Hours):ウィリアム・ワイラー

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ウィリアム・ワイラーの1955年の作品「必死の逃亡者(The Desperate Hours)」は、サスペンスタッチの映画である。三人の脱獄囚が四人家族の平和な家に押し入り、彼らを人質にとって逃走を図ろうとするところを描く。人質と言っても、警察を挑発するわけではない。家族の長である父親に向かって、妻子の安全と引き換えに言うことを聞かせようと言うのである。それは脱獄囚のボスが愛人から逃走資金を受け取るまでの間、無事家の中に匿えという条件を言う。妻子を人質にして自分の要求をのませようというわけである。

これに対して要求された父親は、妻子の安全を優先して彼らの要求通りに動く。時あらば彼らのすきをついて反撃しようと身構えるが、なにしろ愛する妻子を人質に取られているので、無理なことはできない。犯人のボスによれば、愛人から金が届くまではそんなに時間はかからない。それをなんとか乗り切れば、無事解放される見込みがある。それを信じて父親はがんばるのだが、その愛人がアクシデントで来られなくなる。その代りに郵便で金を送るということになる。それも父親の勤めている会社宛てに。

こうして父親と脱獄囚たちとの息のつまるやりとりが展開される。つまり家族を人質に取られた父親の苦悩と、人質をとって何とかうまく逃れようとする脱獄囚との間で、張り詰めたかけひきが展開されるわけだ。ここでひとつ考えさせられるのは、日本人ならこうした場合、自分だけで解決しようとせず、警察に相談するのが普通だと思うのだが、この映画の中の父親は、絶対にそれをしないのである。警察に相談したら、家族の安全が深刻な脅威にさらされると思っているからだ。つまり警察は市民から信頼されていないということだ。

ヒッチコックの「知りすぎていた男」でもそうだったが、アメリカ市民は自分の家族が人質に取られたときには、警察に相談せずに自分で解決しようとする傾向が強いようだ。警察に相談するとかえって家族の安全が損なわれる可能性が高まる。そう思っているからだろう。

つまりアメリカ人は、日本人ほど警察を信頼していない、ということなのだと思う。この映画中でも警察は、市民の安全よりも自分たちのメンツを優先して考える集団というように描かれている。そんなものに家族の安全をゆだねるわけにはいかない。そう父親が思うのも当然だ、というふうに伝わってくるのである。

ともあれ、脱獄囚たちはあまり頭がよくないらしく、いわば自滅するような形で破綻に追い込まれる。まず、太っちょが家に来た清掃員を追いかけて殺す。自分たちが家に隠れていることを感づかれたと思ったからだ。そのことで自分たちの所在が警察にばれる。また、ボスの弟は兄と仲間割れして家を飛び出したところ、警察と打ち合いになって殺されてしまう。そうこうするうち警察が家を取りかこむ。その家の中に単身乗り込んだ父親は、機転を働かせて太っちょを警察に射殺させ、さらに知恵を働かせてボスを追い詰める。ボスも又警察によって射殺される。

というわけで、父親の機転によって事件が解決するという筋立てになっている。警察はさしみのツマのような扱われ方である。筋書きとしては比較的単純だが、見ているものとしては、かなりな緊張感を強いられるので、なかり中身の濃いものを見せられているような気になる。

主演は一応ボスを演じたハンフリー・ボガートということになっているが、むしろ父親を演じたフレデリック・マーチのほうが光っている。






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