死者の奢り:大江健三郎

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大江健三郎は処女作の「奇妙な仕事」で、犬殺しを通じて死の意味について提起したが、続く「死者の奢り」においても、やはり死に向き合った。したがってこれら二つの作品は、死を通じて結びついているといえる。というか、前作で提起した死のテーマをこの作品で一段と深化させたといえよう。それは前作においては死が犬という人間にとっての他者によって体現されていたのに対し、この作品では死んでしまった人間が、その物理的なありようを通して、人間にむき出しの死を示していることにも現れている。犬の死は人間にとってはたかが象徴的な意味しか持たないが、死んだ人間はそれを見る者に向かって死とは何かと言うことを、単に概念的にだけではなく、それそこ具象的でかつ情念的な形で示すのだ。いや示すと言う言葉は適当ではない。見る者をして震撼させるのである。

「奇妙な仕事」の僕同様、この小説の中の僕は、金を稼ぎたいという動機だけで、あまり意に染まない仕事を引き受ける。その仕事がやはり死にかかわるものだったのである。「奇妙な仕事」は生きている犬を殺すことだったが、ここでの仕事は死んでしまった人間の死体にかかわることだ。大学の医学部が解剖用に保存していた数十体の死体を古い水槽から新しい水槽に移すというのがその仕事の内容だった。従って同じく死をテーマにしていても、「奇妙な仕事」は犬に死を与えるのが仕事だったのに対して、ここでは既に与えられた死になんらかの形でかかわることが仕事の内容になる。死は僕にとってはすでにそこに横たわっている与件なのである。その与件である死を、僕ともう一人のアルバイト仲間である女子学生が、死体置き場の管理人に指示されながら、死体を処理する。処理というのは、先にも触れたように、数十体の死体を、古い水槽から新しい水槽に移すことだ。しかし死体を別の水槽に移すことにはあまり意味が無いということが、小説の途中でも伝わってくるし、ラストシーンではそれが劇的な形で明らかにされる。古い水槽に浮かべられていた数十体の死体は、もはや解剖の役にたたないまでに痛んでしまったので、火葬処分するはずだったのだ。それを管理人がどういうわけか取り違えて、新しい水槽に移す作業をした。それに僕と女子学生がつきあわされたのである。

意に染まない仕事を、うんざりしながら行ったあげくに、それが徒労だったというのは、前作の「奇妙な仕事」と同じ設定である。「奇妙な仕事」では、その徒労は僕を滅入らせるたが犬たちには確実に死を与えた。ところがここでは、僕の徒労は死者たちに何も付け加えなかった。僕が徒労の行為をしようがするまいが、死者たちには火葬処分される運命しか待っていなかったのである。死体の焼却というイメージは「奇妙な仕事」でも出てきた。そこでは人間の焼却炉で犬が焼却されるというイメージが示されていたが、ここでは数十体の遺体を一時に焼却するイメージが暗示されている。死体焼却炉で数十体の死体を焼却するというのは、いまでは考えられない。大江がこの小説を書いたときでも、少なくとも東京の市街地でそのようなことが可能だったとは思われない。そのありそうもないことを大江は何故持ち出したのか。

「奇妙な仕事」の犬殺しの男は、自分の仕事に誇りをもっていたが、この小説の中の死体置き場の管理人は自分の仕事に誇りをもってはいないようである。それどころか、毎日死体を相手にしているおかげで、生きている人間に対して人間らしい感情が持てなくなったと言わせている。その管理人は、どうやら自分の子どもさえ愛する事が出来ないようなのだ。つまり彼は死に取り憑かれた人間として描かれているわけである。

管理人の場合には、永い時間をかけて緩慢に、しかし確実に、ということは慢性的な形で死に取り憑かれてしまったのだったが、僕とその仕事仲間の女子学生は、短時間のうちに、いわば急性症状的な形で死に取り憑かれてしまう。彼は生きている人間を相手に、彼があたかも死んでいて、したがって自分に対して抵抗を示すことはないだろうという思い込みから、彼をもののように扱うのだが、その彼はそれに対して強い抵抗を示す。僕は思わず抵抗されてすっかりうろたえてしまう。そしてこんな形で抵抗されたのは、相手が生きているからだと納得させられるのだ。そこで僕はつぶやくのだ。「生きている人間と話すのは、なぜこんなに困難で、思い掛けない方向にしか発展しないで、しかも徒労な感じがつきまとうのだろう」と。

一方女子学生の方は望まない妊娠をしていて、堕胎するつもりでいるのだが、そしてその費用を作る目的でこんな仕事を引き受けてしまったのだったが、短い時間ながらも数十体の人間の死体と触れあっているうちに、死の意味を考えずにいられなくなって、堕胎の決意が揺らいだりする。それが死が彼女に与えた効果だったと言える。彼女は彼女なりに、死に取り憑かれた感じを次のように表現する。「トイレでしゃがみこんでいるとね、死んだ人たちが私の剥き出しのお尻を支えに来るような気がするのよ。ぎっしり私の後に死んだ人たちがかたまって、私を見つめているみたい」。

彼女はまた、死体置き場の死者たちと自分の腹のなかの胎児とを比較して次のようにも言う。「両方とも人間にはちがいないけれど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」

死者には当然意識はないし、したがって生きているものたちに意図的に働きかけることはない。しかし無言の働きかけというものがあるらしく、何らかの形で生きているものに影響を及ぼす。たとえば、終戦間際に脱走を図って銃殺された男の遺体には腹に銃弾のあとがあったが、それが僕には生々しく迫ってくる。この死体置き場には、十年以上も前に死んだ人間の死体も保存されていたのだ。そういう古い死体をすべて焼却処分して、その代わりに新しい死体を受け入れる。解剖用の死体はいくらでも手に入るのだ。新しく作った水槽は、それらを受け入れるためにわざわざ作ったものなのだ。にもかかわらず管理人の取り違えから、折角の新しい水槽を、古い死体で満たしてしまったのだ。

それはさておいて、それらの新しい死体が運び混まれてくる。その中に死んだばかりの少女の死体もある。その死体は裸のまま解剖台に横たえられ、彼女の開いた両脚の間からはセクスが丸見えだ。そのセクスにはクリトリスがついている。それを見た僕は激しく勃起するのを感じる。つまり僕は死者によって激しく性的な徴発を受けているのだ。死者に性欲をかき立てられるというのは、倒錯の究極的な形ではないか。

小説は徒労に終わった仕事に対する僕のやりきれない感情を表現して終わる。

「僕は勢いよく階段を駆け下りたが、僕の喉にこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押し戻して来るのだ」






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