炎の画家ゴッホ

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日本ではゴッホを「炎の画家」という呼び方が定着している。その画風や色彩が炎のような激しさを感じさせるからだろう。しかし色彩という点ではゴーギャンのほうが激しい。ゴーギャンは暖色系の原色を駆使して絢爛たる色彩世界を現出した。これにシンプルな構図が相まって、ヨーロッパの絵画史上例を見ないような世界を作り上げた。ゴーギャン以降の画家でゴーギャンの影響を受けなかったものはいないと言ってよいほど、その後の西洋絵画に深刻に働きかけた。

それに対してゴッホのほうは、一見して派手やかに見える色彩も、ブルーやグリーンなどの寒色を多用していることに気づかされるように、色彩としてはゴーギャンよりずっと穏やかな色使いである。ゴッホの絵が炎を思わせるような激しさを印象づけるのは、筆の使い方にあると思われる。筆先を叩きつけるようにラフなタッチで描いていることから、画面に荒々しさが醸し出され、それが炎のような激しさを連想させるのではないか。

この炎のように激しい絵をゴッホが描くようになるのは、主に南仏アルルに移動した晩年のことである。ゴッホがアルルに移ったのは1888年2月のことで、満34歳になる直前だった。それから1890年の7月に37歳で死ぬまでのわずか二年半の間に、今日ゴッホの傑作と称される作品群が生み出された。この時期、最も脂の乗っていた時には月に平均10点を超すという多作ぶりで、精力的に制作した。

ゴッホが南仏に移った主な理由は、日本の浮世絵のようにシンプルで明るい色彩の絵を描きたいということだった。ゴッホにとっては浮世絵こそが自分の絵の理想だったのである。南仏の太陽はそんなゴッホの希望に答えた。明るい太陽の光が注ぐ南仏の景物やエキゾチックな雰囲気の人物に、ゴッホは旺盛な創作意欲を掻き立てられた。

ゴッホは芸術の同志と考えていたゴーギャンをアルルに呼び寄せた。ゴーギャンは1888年の10月にアルルにやって来てゴッホとの共同生活に入るが、たった二か月で破綻した。その理由は色々言われているが、精神に不安定なところがあるゴッホと、傍若無人で傲慢なゴーギャンとでは、うまくいかない運命にあったというのが大方の解釈である。

ゴッホは有名な耳切り事件などを起こして周囲の住民に気味悪がられていたが、ついに住民の要望を受けた市長によって監禁されてしまい、更にサン・レミの精神病院に入れられてしまう。

精神病院を出たゴッホは、翌1890年の5月にサン・レミを去ってパリに舞い戻り、さらにオーヴェール・シュル・オワーズに移る。そして同年の7月27日にピストル自殺を図り、翌々日に死亡した。この自殺については、さまざまな憶測が飛んでおり、中には他殺説などもあって、いまだに真相はわかっていない。

ここではゴッホの画業のうち、アルル時代以降の晩年の輝かしい作品群を取り上げて鑑賞したいと思う。






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