海上の道:柳田国男の日本人起源論

| コメント(0)
柳田国男の主著「海上の道」はいくつかの論考からなっている。その冒頭を飾る小論「海上の道」は、全体への導入部の位置づけだ。ここで柳田は、自分の問題意識の起源について語っている。その問題意識とは、日本人はどこからやって来たのかということであった。柳田はこれについて、日本人は遙か南の海から「海上の道」を通ってやって来たと仮定する。そしてどのような理由でそう仮定したか。その理由を説明する。その理由がすなわち、問題意識の起源となるわけだ。

柳田がこの小論で、自分の問題意識の起源としてあげるのは、三つの事柄だ。一つは、日本人が海からやって来るものに強い関心を示してきたこと。一つは、日本人の祖先が宝貝に異常な価値を認めていたらしいこと。一つは、日本人と稲とのかかわりである。この三つの事柄を解明することで柳田は、日本人の祖先が南方から海上の道を通って南西諸島の南端の島にまずやってきて、そこから順次北上して日本列島に散らばっていったのではないかと推論する。

まず、海からやって来るものについて。柳田自身愛知県の砂浜に漂着した椰子の実を見て、この椰子の実がはるか南方の島から海上の道を通って日本にやってきたように、我々日本人の祖先たちも南方の海から日本列島にやって来たのではないかと考えた。しかしこれはあくまでも一つのアイデアであって、日本人が南方の海からやって来たことの証拠となるには不十分だ。証拠というのは、ある事柄と強い因果関係によって結びついていなければならないが、椰子の実と日本人の来歴との間には、そのような因果関係を認めるのはむつかしい。

そこで柳田の注目したのは、日本各地で日本人が風に示してきた関心の強さだ。柳田は、日本海側の地方で海から港のほうへ向かって吹いてくる風をアユノカゼとかアイノカゼとか言って、特別の関心を示していることに注目する。これと同じ事は太平洋側にも見られ、愛知県の県名となったアユチは、海から港に向かって吹き寄せる南風のことを言う。このように日本人が海から吹いてくる風に異常な関心を示すのは、かつて日本人の祖先が遙か海の彼方から風に乗ってやって来た名残なのではないか、そう柳田は推論するのである。

柳田はまた、「国の大昔の歴史と関係する古い幾つかの宮社が、いずれも海のほとりに近く立っていること」に着目し、これもまた日本人の祖先が遙か海の彼方からこの列島にやって来たことの名残ではないかとも言っている。

次に、日本人の祖先が宝貝に異常な価値を認めたこと。宝貝は別名を子安貝とも言い、貝殻の美しさで人を引きつける。これが子安貝と言われるのは、その形状が女性器を連想させるためで、そこからこれを「つぶ」とか「つび」とかいう地方もある。「つび」は古事記にも出てくる言葉で、女性器を意味する。ともかく形が女性器に似ているところから、出産のイメージと結びつき、そこから子安貝と呼ばれるようになったらしいと柳田は推論する。

この子安貝あるいは宝貝が、何故日本人の祖先と結びつくのか。柳田が推測するに、日本列島の南部は、沖縄を含めて宝貝の生息地にあたっている。この貝はそれ自体の美しさから人目を引くことがあったほかに、中国大陸ではこれを奇貨として珍重する風習があった。そんなことではじめて日本列島の南端にやってきた人々は、この宝貝の魅力に惹かれて、そこに定住するようになった。それが我々日本人のそもそもの始まりなのではないか。そう柳田は推論するのである。

柳田はこうも推論する。南方の島々と大陸との間には古い時代から往来があって、そこには当然貿易も行われ、その最も盛んなものとして宝貝のやりとりもあったろうと。すなわち古代の日本人は、そうしたやりとりの主体の一員であって、宝貝を求めて日本の南端の島々にやってきて、それを大陸に輸出していたのではないか、と言うのである。この見方によれば、日本人の祖先は宝貝の貿易が連れてきたということになる。「ともかくこの南方の島々と、大陸との間の往来には、文字の記録よりもはるかに古い痕跡があり、これに参加した者に宮古の船があり、また宝貝があったというまでは、ほぼ知られている」

次に日本人と稲とのかかわりについて。通説では、稲は縄文時代から弥生時代への移行の時期に、南方から伝えられたということになっている。この説の眼目は、すでに日本列島に住んでいた人々のもとに稲の籾種がもたらされ、それを日本人の祖先たちが栽培したということだ。つまりまず日本列島に原日本人がすでに住みついていて、そこへ後から稲の文化がもたらされたということになる。この見方は現在でも有力だ。しかし柳田はそうは考えない。

稲というものは、籾種さえあればどこでも簡単に作れるというものではない。稲の栽培には高い技術がいる。従って日本に稲の文化が伝えられたということは、稲の栽培技術とセットで籾種が伝えられたということであり、それには当然稲を栽培する技術を持った人々が一緒に来たということが含まれている。この稲と一緒に来た人々が、日本人の祖先なのではないか。そう柳田は推論するのである。この推論に従えば、稲は南方のほうからやって来たということになり、日本人が南方から海上の道を通ってやって来たとする柳田の仮説を裏書きするということになる。

もっともこの日本列島には、稲の文化が伝わる前から人が住み着いていたことは、科学的に明らかにされているので、稲と一緒にやって来た人々、それを弥生人と言ってもよいが、その弥生人だけが日本人の祖先だと言うわけにはいかないだろう。だが日本人の祖先の有力な源泉だったということは出来る。

以上三つの事柄を根拠として柳田は、日本人の祖先は遙か南の海の彼方から海上の道を通ってやってきたという仮説を裏付けようとする。その場合にも、柳田は非常に謙虚であって、自分の説が絶対だとは言い張らない。こう見たほうが、事態をよりスマートに説明できると主張するにとどまる。その謙虚さの理由は、事実の収集とかそれの解明が、まだまだ限定的な範囲を出ないで、それを以て断定するには材料が少なすぎるという自覚にあるようだ。

柳田が最も嫌ったのは、事実の裏付けなしに、大原理とかいったものから垂直的に結論を出したがる風潮だ。そう言う風潮に対して柳田はこう言って批判する。「一方には根本理念などと称して、これだけはまず論争批判の外に置いて、その残りで仕事をしようとするがごとき学風が、何か新しいもののような顔をして、こちらへも手を伸ばしかかっている。そういう証明を要しない原理、固定不動の前提が多かったばかりに、我々は苦しみ、また学問は遅々として進まなかったのである」






コメントする

アーカイブ