飼育:大江健三郎

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「飼育」は大江健三郎の初期の代表作だ。優れた小説がそうであるように、この小説にも色々な読み方があるが、筆者は大江の戦争と死へのこだわりを主に読み取った。死へのこだわりは、処女作の「奇妙な仕事」以来の大江の文学の特徴だが、この小説ではそれを戦争とからませて展開して見せた。戦争自体が強大な死のカオスのようなものなので、それにからませるというよりは、戦争体験を通じて死の意味を実感したと言ってよいだろう。

戦後に登場した作家のほとんどが多かれ少なかれ自らの戦争体験にこだわっていた。三島由紀夫でさえ、兵役逃れへのうしろめたさという形で、自分なりの戦争体験を語った。そんななかで大江は、敗戦時に十歳の少年で、しかも四国の山の中に住んでいたこともあって、戦争を直接体験したわけではなかったが、戦争の意味はひしひしと感じていたらしい。この小説にはそうした大江の分身と思われる一少年の眼から見た戦争とその意味合いのようなものが書かれている。

小説の中では明示されていないが、舞台は大江の生まれ育った四国の山の中、愛媛県内子町の北東にある大瀬という町のようだ。前後の文脈からそう伝わってくるように書かれている。そこは普段から孤立しがちな集落で、僕を始めここで暮らしている子どもたちは、町の子どもたちから猿かなにかのような汚らしい生き物として蔑まれている。しかしそんなことを気にしなければ、結構快適に暮らせる天国のようないいところなのだ。ここではすべてがゆったりと流れていく。死でさえもそうした流れの中での何気ない出来事だ。それは子どもたちが、火葬されて骨になった死体から、自分たちの遊びの材料に使えそうなものを探し出す場面からも伝わってくる。死は、すぐそこに転がっており、誰の眼にも触れる、可視的でありふれたことがらなのだ。

ところがその平和そのものとも言えるこの山の中の集落に、死が暴力的に介入してくる。いままでは穏やかで自然な事柄であった死が、一瞬のうちに相貌を変え、主人公の僕を始め、集落のすべての人々を巻き込んで、彼らをきりきり舞いさせる。死はもはや馴染み深いものとしてではなく、外から暴力的に押し付けられた異物として、そこに生きている人々に迫ってくる。

死をこのように暴力的な形でもたらしたもの、それは戦争だった。日本と敵国との間で戦争が行われていたからこそ、四国の山の中までそれに巻き込まれ、今まで思ってもいなかった形で死に直面させられる。それは僕や集落の人々にとっては、なかなか納得のいなかい異常な出来事だったが、しかし戦争というものは、人を殺しあうことが本質であるわけだから、戦争と全くかかわりを持たない限り、死に馴れ馴れしく近づかれるのは避けがたいことなのだ。自分から避けたいと思っても、死はそれをさせてくれない。死はあらゆる人々に公平に訪れる。それが戦争というものの本質なのだ。そういうメッセージがこの小説には込められているようである。

その死を運んで来たのは、アメリカの黒人兵だった。この黒人兵は四国上空を飛行機で通過中に、なにかの拍子で飛行機が墜落し、他の乗務員は即死したが、自分だけが生き残ったところを、集落の人々によって生け捕りにされ、集落内の倉庫の地下室に監禁される。彼が放り込まれた地下室は、主人公の僕が住んでいる建物(粗末な倉庫)の一角にあるのだ。そんなこともあって、僕の一家がその黒人兵の世話をすることになる。始めは黒人兵に対して恐怖感を覚えていた僕は、次第に黒人兵を恐れなくなったばかりか、親しみを感じたりする。しかし、黒人兵の身柄が県に引き渡されると決まるや、それを恐れた黒人兵が僕を人質に取って抵抗する。すると僕の父親を始め集落の人々は、僕の命より黒人兵の確保を優先させるかのように、黒人兵に襲い掛かる。その騒ぎの中で黒人兵は僕の父親によって鉈で頭を割られて死に、僕はその巻き添えを食って手を砕かれるのである。

死んだのは敵国の黒人兵であり、僕や集落に暮らす日本人ではなかったが、しかし死の暴力的な意味合いは、それが誰のものであるかという相違を超えてひしひしと伝わってくる。しかも僕は自分の父親によって手を砕かれてしまったのだ。その理不尽さを僕はどう考えたらよいかわからない。第一、戦争さえなければ僕はせっかく仲よくなった黒人兵の死を見る事もなかっただろうし、僕を不具にした父親を憎むこともなかっただろう。そんなことを思うと僕は、自分がもう子供ではないと感じる。もう立派に死の意味について考えることができるのだ。

この小説の中の黒人兵の描き方には両義性が認められる。一方では黒人兵は敵国の兵士として憎しみの対象である。その憎しみは、黒人兵の身柄を当分集落で預かれと命令された村の大人たちが、家畜を飼うような気持ちでこの黒人を「飼う」と言っていることに現われている。僕もそんな大人たちの気持を受け入れて、黒人を人間としてではなく、風変わりな生き物を見るような目で見ることになるし、その目に移った黒人はたしかに、人間というより獰猛でかつ美しい野獣のような姿で映る。しかしいずれにしてもこの黒人兵は、自分たちと同じ人間とは見られていないわけだ。そんな黒人に好意を寄せる僕の気持は、あたかもおもちゃを弄ぶ子供のそれのようである。

黒人兵は人間とは違う生き物としてのあり方から、次第に人間的なあり方に相貌を変えていく。その変化をもたらしたのは、黒人兵に対する僕や集落の人たちの態度の変化だ。長い間黒人兵と同居しているうちに、次第に警戒心がとれて、黒人を一人の人間として見るようになるのだ。だが不幸はそのタイミングで起きた。いまや自由に歩き回れるようになっていた黒人兵が、自分の身柄に重大な変更がもたらされる可能性を感じるや、僕を人質にとって抵抗しようとするのだ。そこで集落の大人たちは、黒人兵に詰め寄り、彼を殺そうとする。生きて居られては持て余す一方だし、むしろ危険な存在と化したからだ。そして僕の父親が、僕の手もろともに黒人兵の頭をたたき割る。

「僕は自分の左掌と、黒人兵の頭蓋の打ち砕かれる音を聞いた。僕の顎の下の黒人兵の油ぎって光る皮膚の上でどろどろした血が玉になり、はじける。僕らに向かって大人たちが殺到し、僕は黒人兵の腕の弛緩と自分の躰を焼き付く痛みとを感じた・・・歯を剝きだし、鉈をふるって僕に襲いかかった大人たち、それは奇怪で、僕の理解を拒み、吐気を感じさせる。僕は父たちが部屋を出て行くまで喚きつづけた」

こうして僕は、黒人兵の死に戦争の影を強く感じるのだ。それは十歳の少年が自分なりに体験した戦争の真実だった。その真実はある意味では苦いものだが、ある意味では現実離れしたものでもあった。というのは、僕が住んでいる山の中までは、戦争は目に見える形では押し迫っていなかったわけだし、たとえ敵の黒人兵が現れたといっても、それは戦争を身ひとつで体現しているとまでは言えないような、大袈裟なものではなかった。少なくとも僕はこの黒人兵を敵国の恐ろしい兵士としてよりは、自分で飼っている家畜かあるいは美しい肉体をもった野獣のように受け止めていたのだ。

しかし、この黒人兵のおかげで自分の手を砕かれるに至って、僕も戦争を自分にかかわりのある事柄として受け止めるようになるだろう。

「戦争も、こうなるとひどいものだな。子供の指まで叩きつぶす」と「書記」に言われて、「僕は息を深く吸い込み黙っていた。戦争、血まみれの大規模な長い戦い、それが続いているはずだった。遠い国で、羊の群や、刈り込まれた芝生を押し流す洪水のように、それは決して僕らの村へは届いて来ない筈の戦争。ところが、それが僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶしに来る。父が鉈をふるって戦争の血に躰を酔わせながら。そして、急に村は戦争におおいつくされ、その雑踏の中で僕は息もつけない」

この小説の中の描写には、視覚的なイメージを豊富に感じさせる場面が多い。たとえば、「僕らはたえまなく笑っている黒人兵の腕を引いて広場に出た。谷あいを霧が急速に晴れて行き、風がおこると樹木は小きざみに身震いして濡れた葉や雨滴をはねちらし、小さく瞬間的な虹を作り、そこを蝉が飛び立つ。僕らは嵐のような蝉の鳴き声と回復しはじめる暑気の中で、地下倉の降り口の台石に腰かけたまま、長い間、濡れた樹皮の匂う空気を吸った」

こういう描写はランボーのみずみずしい散文詩に通じるものを感じさせる。大江の才能の一つの現れだろう。






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