学海先生の明治維新その四十八

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 明治三年の正月四日、学海先生は神祇官に赴いて神殿を拝した。神殿の内部には、中央に八神殿、東に天神地祇、西に歴世天皇が祭られていた。今日の宮中三殿の原型となるものだ。宮中三殿では八神殿と天神地祇を併せて神殿に祭り、皇霊殿に歴代天皇の霊を祭るほか、賢所を設けて天照大神を祭るとともに三種の神器の一つ八咫鏡が奉斎されている。これらを当代の庶民が気楽に見ることはできない。学海先生の時代にも神祇官に庶民が立ち入ることはできなかったろう。先生が立ち入ることを許されたのは集議院議員の肩書があったためだ。
 学海先生は儒者であり、神道にはほとんど関心を持たなかったので、神祇官を見物してもたいした感慨は沸かなかった。ただ新政府がかかるものを作ってこれを神道の拠点とし、神道を強制するあまりに儒仏を迫害せんとしていることに反発を感じた。迫害されているのは耶蘇教も同じで、その程度は儒仏の比ではなかったが、学海先生は耶蘇教徒に同情することはなかった。というのも、関東では耶蘇教信者がほとんど目立たず、その迫害されるところを見る機会もないからだった。目に見えぬものに人は想像をめぐらすことはむつかしい。
 神祇官を見物した翌日、学海先生は久しぶりに竹内孫介と会った。竹内はあいかわらず紀州藩邸に住んでいて、色々な情報を集めてそれを求めに応じて提供していた。しかい往年とは違って彼を訪ねるものはほとんどいないということだった。時代が変わったのである。今は新政府が日本を動かしていた。それゆえ新政府の動向を知りうることが情報通と呼ばれるものの条件となった。ところが竹内はそうした条件を持たなかった。彼は学海先生のように集議院議員になることもなく、紀州藩つまり現在の和歌山県の権少属という軽輩の待遇に甘んじ、天下の動向をつぶさに知りうる立場になかったのである。むしろ学海先生のほうがより広い情報源に接していると言ってよかった。
 旧友川田毅卿とも会った。毅卿は維新の動乱期に備中松山藩のために奔走し、一時は朝敵になりかけた藩の危機を乗り切ってその存続を実現したあと、致仕して東京日本橋に私塾を開いていた。それに伴い号を毅卿から甕江に変えた。
「甕江と号を変えたそうじゃが、またどういう心境からそうしたのじゃ?」
「藩を致仕して塾を開くにあたり、今までの名では能がなかろうと思って色々考えてみたが、一藩を超えて天下を睥睨するにはこれがよかろうと思ったのじゃ。世の中のことがらをすべて飲み込んで、天下を我が掌中に収めるという意味合いじゃ」
「なるほど、それは意気軒昂でかつ壮大なことじゃ。貴兄らしい」
「そう言われると照れるがの」
「入門するものは結構おられるのか?」
「ああ、おかげさまでな。長州の木戸さんがワシのことを気に入ってくれてな。方々でワシのことを宣伝してくれるもので、入門を望むものが次々にやってくるのじゃ」
「木戸さんといえば、集議院の前身たる公務所を作ったのはあの人じゃ。長州人にはガサツで横柄な人間が多いが、あの人ばかりは腰が低くかつ気配りがきく。見識もなかなかのものじゃ。この人がいるおかげで、新政府も救われるところが多い。貴兄もそうは思わぬか?」
「それは褒めすぎというものじゃろうが、まあ、人間の出来はよいほうじゃろう」
 こんなやりとりをしながら学海先生は、自分と毅卿と二人ながら維新の激動を乗り切って、こうして世間話ができるのも天の配材だろうと思うのであった。
「ところで天山先生の墓にはよく参っておるのか?」
 毅卿あらため甕江が学海先生にこう聞いた。天山は弘庵師晩年の号である。
「ああ、年紀法要の日には必ず墓参をしておる。また夫人がよく拙宅を訪ねて来られるので、その際には芝居にお連れなどして慰め申しておる。なにしろ先生の夫人は拙者にとっては母親の代理のようなものじゃ。どれだけお世話になったかしれぬ。できることはしたいと思っておる。幸い夫人は拙者を気に入っておられるようで、たびたび拙宅を訪わるる。最近は内人が娩身を控えておるので、なにかと気を使ってくださる」
「奥方はいつごろ出産されるのじゃ?」
「産婆はあとひと月半もすれば生まれるじゃろうと申しておる」
「オヌシのところはたしか女子が二人じゃったな。今度は男子だとよいがの」
「まあ、無事に生まれてくれればどちらでもよいが、できれば男子が欲しいものじゃ」
 この会話どおり、一月半後の二月二十六日に先生の細君は男子を生んだ。先生は男子を授かって大いに喜び、その子に美狭古と名付けた。この時先生の家には長女の窕が一緒に暮らしていたが、二女の琴柱は細君の実家で育てられていた。
 これと前後して二月十六日に、徳大寺大納言が山口藩宣撫使として下向するについて、諸藩から兵士が徴された。佐倉藩からも兵士三十人を派遣した。
 これは長州藩の藩兵組織の内部で紛争が起き、大楽源太郎ら二千名が藩当局に敵対する行動に出たため、それを鎮圧するために中央政府が動いたというものだった。
 大楽らの謀反の原因は、自分らは戊辰戦争の中核部隊として戦ったにかかわらず、その功績を正当に評価されないばかりか、かえって自分らの部隊を解体し、それに代えて別の軍事組織を作ろうとしている。その軍事組織たるや西洋の物真似で、我々攘夷のために命を懸けて戦ったものを侮辱している。ついては、我々の次のような要求を認めよ、さなくば決戦あるのみとして、次のような要求を掲げた。
 一 積年の同志を解隊せずそのまま温存する事
 一 洋風兵式の偏重を改め武士の戦法を尊重する事
 一 士官の天下り任命をやめ、従来通り同志の互選とする事
 この要求に対して藩当局は武力弾圧を以て応えた。ここに全面的な軍事衝突が起こり、反乱軍と鎮圧軍とが血で血を洗う戦いを繰り広げた。反乱軍の主体となったのは百姓・町人からなる部隊だと言われており、鎮圧軍の主体は上級武士が中心だったと言われる。鎮圧の先頭にたったのは木戸孝允だった。木戸は従来の自然発生的な軍隊を解体して、上意解脱中央集権の近代的な軍隊を作りたいと考えていた。だから大楽らの主張は時代錯誤そのものに映った。それにしても彼が過酷な鎮圧に踏み切ったのは、百姓・町人の軍事的・政治的力量が高まることに危惧を抱いたからだった。百姓・町人の力は、徳川幕府を倒すためには利用すべきであったが、自から天下を握ったいま、かえって不都合なものになったのである。百姓・町人は我々武士が作った秩序に黙々と従っておればよい。政治に口を出すことはまかりならぬ。そう木戸は考えていた。
 この内戦は明治二年の十二月に起こり、翌明治三年の三月まで続いた。長引いたわけは、大楽らが九州に逃亡し、そこから中国・四国・九州の不平士族に新政府に反対して決起することを呼びかけたためだ。この呼びかけに各地の不平士族が応えた。大楽同様維新の際の功績が認められないで不満を抱いていた士族や、新政府の開国政策に怒りを覚える攘夷派の士族が結構バカにならない数にのぼっていたのである。そのことに危機感を覚えた木戸は、全国から兵を投入して鎮圧にあたった。その結果不平士族の動きは封じ込められたが、それにはかなりの兵力と時間とを要したのである。
 学海先生は宣撫使の従軍に佐倉藩も兵を出すという話を聞いて、始めは不平士族の反乱を政府が鎮圧するもので、それ自体はごく当然のことと受け取っていたが、そのうち不平士族の言い分にもなにがしかの理屈があるのではないかと思うようになった。鹿児島の西郷隆盛が反徒に肩入れしているという噂がそうした気持ちを裏付けた。西郷と言えば戊辰戦争に際して官軍を指揮した総大将である。その官軍の総大将だった人物が、反徒に肩入れして政府に対抗しようとしている。もしそれが事実なら、ことはそう単純ではない。
 ついても学海先生は、いまこの国の権力を握っている連中の節操の軽さに思い当たらぬわけにはいかなかった。いまこの国の権力を握っているのは薩長藩閥勢力だが、彼らはもともと尊王攘夷を云々していたのではないか。尊王といって天子を担ぎ、攘夷と言って開国派の幕府を叩く、そうした戦術で手に入れた権力を、今度は薩長の藩閥が私して開国政策を推し進めている。これを無節操と言わずに何と言えばよいのか。名分にこだわる学海先生としては、こうしたやり方は道義に反したものとしてしか受け取れなかった。
 だが今の学海先生にはそんなことを声高に叫ぶような余地はなかった。先生自身集議院議員の一員として新政府の構成員なのであるし、もともと攘夷論者でもなかった先生には開国政策はそう悪いこととも思えない。儒教の道は引き続き重んじられねばならないが、それは開国と両立しないわけではない。だから新政府の方針を表立って批判する理由はないのだが、ただ彼らのやり方にえげつなさのようなものを感じるのである。
 だがあまり深くそのことを考えると精神衛生によくない。季節は折から桜花爛漫の時期だ。学海先生は友人たちを誘って上野の桜を見に出かけた。驚いたことに、根本中道を始めかつてあった伽藍群がことごとく焼失し、山上はまるで裸の山のような有様を呈していた。先生はそれを見ての感慨を次の歌に込めた。
  心なき花もあはれやしりぬらんもろくちりゆく夕ぐれの空
 その晩学海先生は妓を買って抱いた。細君の出産前後でいささか欲求が高じていたのである。





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