人間の羊:大江健三郎

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「人間の羊」は米兵によって侮辱された日本人がその侮辱に反発できないで黙々と忍従するさまを描く。普通の人間なら他人に言われなく侮辱された時には強い怒りを覚えるものだし、それに対して復讐したいという気持ちを抱くのが当然だと思うのだが、この小説の主人公である「僕」は怒りよりも恐怖と自虐の感情を覚え、復讐するどころか、自分の惨めな体験を早く忘れ去りたいと思うのだ。僕がそう思うのには一定程度の根拠がある。僕を侮辱した米兵は、僕がまともに立ち向うにはあまりにも強い相手だし、しかも権力によって守られている。この小説が書かれた当時の日本は独立を回復していたといっても、日本中にはまだ占領軍の続きである駐屯兵が闊歩していて、やりたい放題のことをしていた。その駐屯米兵に対して日本側は、個人レベルでも国家レベルでも屈従するほかはなかった。米兵から見れば一日本人など家畜以下の存在だし、その日本人にとっては米兵は征服者そのものだ。彼らを相手にどうして平等な人間としての振舞いなどできるだろうか。そうしたシニカルな問題意識がこの小説を支えているように受け取られる。

大江はこの小説の直前に書いた「飼育」で、捕虜となった米兵と日本人との交流を一少年の目を通じて描いていた。そこに描かれた米兵は、黒人兵ということもあって、猛々しい征服者のイメージよりも、飼育の対象となる動物的な存在としてのイメージにあふれていた。しかしまた敵方の一員として戦争の影を引きずっており、死の匂いに満ちていた。その米兵に対して日本人が飼育者として振る舞えたのは、日本がまだアメリカと対等に戦っていたからだった。だから捕虜とした米兵に対して日本人は何らの引け目も感じないでいることができたのだし、米兵捕虜が露骨に敵意を示した時には、彼を寄ってたかってたたき殺しもしたのだ。

ところが「人間の羊」というこの小説においては、日本とアメリカとは対等な関係ではない。日本は敗残国であり、アメリカは征服者だ。そのアメリカのやることに日本は逆らえない。それは国家レベルだけではなく個人レベルでも言えることだ。個人としての日本人は米兵から個人的な侮辱を受けてもそれに対抗できるすべはない。ただひたすら忍従するよりほかに道はないのだ。その不条理さをこの小説は描き出したのだと思う。そこには大江なりの戦争感覚があったように思われる。その戦争感覚を大江は、「飼育」においては米兵の屠殺という形で表現し、この小悦においては勝者への敗者の屈従という形で表現したわけであろう。

主人公の僕が米兵から受けた個人的な侮辱とは、たまたま乗り合わせたバスのなかで、日本人の女を伴っていた米兵の集団から暴行をされた上にズボンをずりおろされ尻を剥き出しにされたことだ。バスの中にはほかに多くの日本人が乗っていたが、みな見て見ぬふりをする。これは日本人の昔からの悪い癖で、同胞が外国人によって苦境に落とされても助けようとはせず、関わりになることを避ける傾向が強いことは、安部公房も指摘していた。安部公房によれば終戦後の満州で現地人によって日本人が攻撃されても、周りにいる日本人は誰一人として助け船を出さなかった。これに対して朝鮮人は同胞の危機を座視しない。かならず力を合わせて救出に入るというのだ。

このバスの中の描写でも、主人公の僕がまったく不条理ないきさつから米兵によって暴行され侮辱されても周りの日本人は誰一人として助けようとはせず、関わり合いになることを避けている。しかし彼らはそのことで罰を受ける。彼らも又僕と同じようにズボンをずり落とされ尻を剥き出しにして一列に並ばされるのだ。もし彼らが安部の言う朝鮮人のように団結して米兵に立ち向っていたら、そんなことにはならなかったかも知れない。しかし日本人にその団結を期待するのは筋違いなのだろう。彼らはバラバラなままに米兵たちに各個撃破され、ひとりずつズボンを引きはがされるのだ。

日本人を侮辱した米兵たちは勝鬨の叫び声を上げる。「羊撃ち、羊撃ち、パン パン」とわけのわからない歌を大合唱するのだ。羊のように大人しい日本人をからかってやったぞ、という意味か。

米兵たちがバスから降りていってしまうと、尻を剥き出しにされなかった乗客が、尻を剥き出しにされた「羊」たちに同乗の眼差しを向ける。しかしその視線は冷ややかなものだ。そこには自分が災難に遭わなかったことへの安堵感が露骨に見える。その安堵感はたとえば、「女の尻をまくるのならわかるが・・・男にズボンを脱がせてどうするつもりなのだろう」という言葉に表れている。自分自身が尻を剥き出しにされたら、こんな俄評論のようなことは言っておれないはずだ。

だが尻を剥き出しにされなかった日本人乗客のうち、教員らしい男だけが変わった反応を見せる。この侮辱を黙って甘受する手はない。訴えるべきだというのだ。しかし僕も他の「羊」たちも、この言葉を迷惑に思うだけだ。そんなことをしても報われるとは思えないし、第一こんなことが公になることで世間の笑いものになるのが悔しいのだ。しかし教員は自説を譲らない。僕にどこまでもまとわりついて、警察へ被害届を出させようとする。僕はその情熱に引きずられる余り一緒に交番に駆け込んだりもするが、交番の警察官はまともに取りあってくれないばかりか、僕の顔を見て笑いを押さえられないといった表情さえ見せるのだ。その挙げ句に、「こういう事件のあつかいは丁寧に検討しないとやっかいで」と言う始末だ。警察はこれくらいのことで、米兵相手に戦うのは無理筋だとわかっているのだ。だから僕に向かって、「裸の尻をぱたぱた叩いたといっても・・・死ぬわけでもないだろうし」と言い含めるのである。

小説の後半は、僕に向かって米兵との戦いを勧める教員と、それを避けようとする僕とのせめぎ合いが描かれる。面倒を避けたいと思う僕の気持ちは当時の一般的な日本人(特に保守的な人々)の心情を表わしているのだろう。それに対して米兵との戦いを主張する教員は当時の反米左翼の姿勢をカリカチュアライズしているようにも読める。






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