エロス+虐殺:吉田喜重

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吉田喜重の1970年公開の映画「エロス+虐殺」は、一応成人映画ということになっているが、今日の眼から見れば実に穏やかなものだ。性的な描写がないわけではないが、女の裸を中年親爺がなめ回す程度のことで、セックスの現場をなまなましく映し出しているわけでもなく、今日的な意味でのポルノ映画とはほど遠い。にもかかわらず「エロス+虐殺」などと大袈裟な題名を付けたのはどういうわけか。「虐殺」ということについても、おぞましい虐殺シーンがあるわけでもない。主人公等の殺された後の死体が海岸の砂浜に転がっているところを映している程度だ。

テーマは大杉栄の女出入りだ。大杉の自叙伝のうちから、伊藤野枝及び神近市子との三角関係に触れた部分を下敷きにして、一部脚色を加えている。大杉の女出入りは有名で、また伊藤野枝らとともに震災のどさくさに紛れて甘粕に殺されてもいるので、大杉に焦点を当てて描いたら、題名のとおり「エロス+虐殺」に相応しい映画が出来たかも知れない。しかしこの映画は、大杉への焦点の宛て方がぼけている上に、余計な部分を持ち込んでいるので、余計に題名の趣旨から離れてしまったようだ。

その余計な部分というのは、大杉にかかわる部分と平行するように、現代に生きる男女のもつれ合いを差し挟んでいる部分だ。その部分では、虚無的な男と野心のある女学生とが、なにやらわけのわからぬ事柄を巡って堂々巡りをしている。その堂々巡りが大杉とどんな関係があるのか、映画からはすこしも明らかに伝わってこないので、観客は出来のわるい二本の物語を代わる代わる見せられているような気分になる。この二つの物語の唯一の接点は、女学生が大杉栄と伊藤野枝の生き方に興味を抱いているらしいということだけなのだが、別にそうだからといって、この二つの物語シーンが交差することはないのである。

大杉にかかわる部分は、上述した三角関係に加えて、大杉のアナーキストとのつきあいとか野枝の平塚らいてうとのつきあいなどが描き出される。とりわけ野枝は、二十八歳までに七人も子供を産むくらいに多感な女として、またその生んだ子供をほったらかしにする無責任な母親として描かれている。ほったらかされた子供はどう育てられたか。画面から伝わってくるのは、その一人であるまことが、父親の辻潤に育てられているということである。

映画の主なテーマである三角関係については、大杉の自叙伝のなかの「お化けを見た話」の中に詳しく書かれている。吉田はそれを参考にしたのだろうと思うが、ただ、多少の脚色を加えている。大杉によれば、伊藤野枝に嫉妬した神近市子が大杉を刺したということになっているが、映画では市子のほかに野枝も大杉を刺し、しかもそのために大杉が死んだということになっている。これは史実とは異なるのだが、吉田自身は史実にはこだわらないと、映画のなかでもほのめかしている。作中人物に、この市子による大杉殺傷という事件自体も存在しなかったかもしれないと言わせているのである。

大杉は実際には、関東大震災のどさくさの中で、野枝や甥の少年共々憲兵隊に連行され、そこで甘粕等によってくびり殺されたのであるが、映画には甘粕等は出てこない。大杉等はあたかも自分の意思で死んだように描かれている。ただラストシーンで、「春三月縊り残され花に舞う」という句をポップアップしているばかりである。

この映画の中の画面の特徴として、登場人物の下半身を省いて、上半身ばかり映し出すところが目につく。その為、人物は画面の下のほうに押しやられ、画面の上半分が空虚な感じになっていて、全体としてまとまりにかけた画面構成になっているところが眼につく。意図的にそうしているのだとしたら、どういう意図を吉田が持っていたのか。聞きたいところだ。

ほとんど無関係な二つの物語シーンを無造作につなげているせいもあるのか、映画の流れに緊張感が欠け、だらけた部分が多い。そのため見ているものとしてはやや退屈さを感じさせられる。二時間四十五分もの長さなのだから、これは大きな欠点だと思う。むしろ大杉の部分に焦点を当てて、エロスと虐殺を強調したほうがよかったと思う。

大杉を演じた細川俊之が、大杉のいかにも女たらしな好色ぶりを心憎く表現している。野枝を演じた岡田茉莉子は、細川の大杉の前ではやや精細に欠けている。






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