2018年8月アーカイブ

89.1.2.jpg

ジョゼフ・ルーランはアルルの郵便局で郵便配達をしていた人である。無類の手紙好きであるゴッホは、頻繁に郵便局に通ううちに、この人と仲良くなった。この人と仲良くなると、その家族とも仲良くなった。この人には妻と三人の子どもたちがいたが、ゴッホはかれらの肖像画を併せて二十点も描いたのである。

jap52.every1.JPG

「江分利満氏の優雅な生活」は、1960年代の日本の典型的なサラリーマンの生活ぶりを描いた山口瞳のオムニバス風小説である。主人公の「江分利満氏」とは、英語のエヴリマンをもじったもので、どこにでもいる平凡なサラリーマンを象徴している。小説は随筆風なもので、筋書きらしいものはないが、それにある程度の筋書きを持たせたうえで、岡本喜八が映画化した。

柳田国男が日本の祭に着目した理由は、それが日本人固有の信仰の古い姿を保持していると考えたからであった。その考えを柳田は次のように表現している。「日本では『祭』というたった一つの行事を通じてでないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まって来ている実情とは、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるる幾つかの信仰組織、たとえば仏教やキリスト教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。ただ正しい公けの歴史の一部をもって、経典に準ずべきものだと見る人があるだけである。しかも国の大多数のもっとも誠実なる信者は、これを読む折がなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。そうしてこれから私の説いてみようとするごとく、以前は専門の神職というものは存せず、ましてや彼らの教団組織などはなかった。個々の神社を取囲んで、それぞれに多数の指導者がいたことは事実であるけれども、その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝道せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった」

梶子の会社のお座敷を借りてすき焼きを食ったのは一昨年の七月のことだったが、あれからまる二年ぶりに再びお邪魔することとなった。今回はしゃぶしゃぶを振舞われた。集まったメンバーは梶子のほか、浦、岩、石、六谷および小生の合わせて六人。そのほか柳子が参加するはずだったが、急に体調を崩したと言って欠席した。それもわざわざこの会場までかけつけて、会費を払ったうえで欠席の不礼をわびるという念の入れ方だったという。今回しゃぶしゃぶを食うことになったのは、柳子の強い要望を考慮したうえでのことだったので、柳子としても多少の責任を感じたのだろう。それにしても、折角会場までやって来たのだったら、箸をつけてもよさそうなものを、と皆で言いあったのであった。

 六月の晦日に椿村の治兵衛というものが宮小路に学海先生を訪ねて来た。用件は近日開講予定の郷校に教授として来てくれまいかというものだった。椿村というのは八日市場の東側に隣接する漁村で、旧佐倉藩領の一部であった。そこに新たに郷校を作ると言う。郷校と言うのは民間が自主的に運営する学校のことで、生徒のほとんどは庶民の子だった。運営がしっかりしている点では寺子屋を大規模にしたようなもので、今の小中学校の前身と考えてよい。
jap51.zenzai2.JPG

豊田四郎の1955年の映画「夫婦善哉」は、織田作之助の同名の小説を映画化したものである。大阪船場の化粧品問屋の道楽息子と芸者の繰り広げる痴話物語をコメディタッチに描いたものだ。息子柳吉(森繁久弥)は店の金で遊び歩き、妻子をほったらかして芸者にうつつを抜かしていることで、父親から勘当にされている。一方芸者の蝶子(淡島千景)は、男に身請けされて一緒に暮らし始めたものの、男のいい加減さになんどもげんなりされながらも、あきらめて男の面倒を見続ける。その二人の掛け合いが面白おかしく描写されるだけで、映画はなりたっている。だから大した筋書きはない。ただ映画が進行しているうちに、男の妻と父親が死に、女の両親も死んで、世の中に二人きりになりながら、あるいはそのためにかえって、別れがたくなるという人生の機微を観客は感じさせられるというわけだ。

honen1879.0.jpg

大日本名将鑑は明治十年から十五年にかけて刊行されたシリーズで、日本史上の偉人や賢人をテーマにしている。当時は明治維新にともなって日本の歴史への関心が高まっており、政府も国民に対する歴史教育に力を入れていた。このシリーズはそうした動きに乗ったもので、庶民の人気を博した。

89.1.1.jpg

ゴッホにはひまわりの連作があるが、そのほとんどは1888年の夏に描かれたものだ。ゴッホはこれらひまわりの絵で黄色い家の部屋を飾り、ゴーギャンを迎えようと考えたのだ。

竹内好の論文「日本のアジア主義」は、日本におけるアジア主義の系譜をたどったものである。竹内は日本のアジア主義を玄洋社・黒龍会によって代表させているが、この流れは国権主義的・侵略的なところを特徴としている。その点では右翼の典型といえるものだ。しかし当初からそうだったわけではない、と竹内は言う。玄洋社ができたのは明治十年のことだが、その当時は民権論的なところもあったし、アジアと連帯しようというようなところもあった。要するにアジアに対して一方的で侵略的な態度を必ずしも取っていなかったのである。

先日の四方山話の会の席上、石子がバラライカの演奏会を聞きにいかないかと皆を誘ったところ、手を上げたのは小生だけだった。他の連中はロシア音楽にはあまり興味がないらしい。そこで石子と小生の二人で聞きに行った次第だ。日時は昨日(八月二十五日午後二時から)、場所は紀尾井町の紀尾井ホールだ。炎天下を汗をかきながら行き、午後一時半に会場のエントランスで落ち合った。

 明治五年の正月を学海先生はほとんど浪人の身で迎えた。仕事が全くなかったというわけではないのだが、正規の職業を持たなかったのだ。前年の暮、印旛県令になった河瀬修治から西村茂樹共々県への士官を勧められ、いったんは心が動いたが、結局それを断った。その後西村はじめ佐倉藩士の多くが臨時の印旛県庁が置かれた行徳に移り住んだが、学海先生は佐倉にとどまって、藩務の残務整理を続ける一方、旧藩士たちの授産事業を手がけていた。この授産事業は廃藩後に藩士たちやその家族が路頭に迷わぬようにと、旧藩主正倫公が出してくれた資金をもとに始めたもので、当初は西村茂樹が中心に運営していたが、西村が印旛県庁に行くに伴って、学海先生にその運営を託されたのであった。その仕事は無報酬であるから正規の職業とは言えなかったわけである。
us05.ama3.JPG

ミロス・フォアマンの1984年の映画「アマデウス」は、モーツアルトの生涯をテーマにしたものである。ウェスト・エンドやブロードウェーで大当たりした舞台を映画化したものだ。モーツアルトの死には不可解なところが多く、毒殺説もあるが、そうした憶測をもとに筋が組み立てられている。生前モーツアルトの好敵手だったイタリア人音楽家アントニオ・サリエリが、モーツアルトの才能をねたんで毒殺したという噂話をとりあげて、それを映画に組み込んでいる。ところが、映画では、サリエリは自分がモーツアルトを殺したと信じ込んでいるが、それは精神病者の妄想であって、実際には彼がモーツアルトを殺したのではなく、病気のために死んだのだと言う風に伝わってくる。

honen1877.1.1.jpg

明治十年の西南戦争は、新聞出版業界を大いに賑わした。この戦争の報道に庶民の関心が高まり、新聞は発行部数を大いに伸ばした。日露戦争や太平洋戦争でも同じような現象が起き、戦争が新聞の需要を高めるという法則のようなものが確認されるにいたっている。
「戦いの今日」も、米兵に侮辱される日本人という大江にとっておなじみのテーマを描いたものである。この小説では日本人の女までが日本人に向かって侮辱の言葉を投げかけている。しかも米兵を徴発するようにだ。この女、いわゆるパンパンだが、そのパンパン女の言葉に徴発されるようにして米兵が日本人を侮辱するのだ。その他にも日本人を侮辱する米兵はいる。日本人が脱走を手助けした若い米兵で、先ほど触れたパンパン女の情夫格の男だ。この男は十九歳という若さで、まだ分別を身につけていないのだが、ちっぽけな日本人を侮辱することは知っているのである。
us04.funny2.JPG

「ファニー・レディ(Funny Lady)」は、ウィリアム・ワイラーの1968年の映画「ファニー・ガール」の続編である。「ファニー・ガール」は1920年代にブロードウェーで活躍した喜劇女優ファニー・ブライスの半生を描いたものだったが、この「ファニー・レディ」は、その後日談という形をとっている。前作に引き続きバーブラ・ストライザンドがファニーを演じているが、監督は別人が務めた。バーブラは俳優としてだけではなく、プロデュースにも深く関わっている。

88.12.2.jpg

「ゴーギャンの椅子」と題されたこの絵は、「フィンセントの椅子」と一対をなす作品である。ゴッホがゴーギャンを黄色い家に招き入れたのは1888年10月のこと。それからしばらく経ってからゴッホは、自分とゴーギャンとの共同生活を記念して、この一対の椅子の絵を描いた。

小生は日頃ネットのブラウザーにグーグルのクロームを使っているのだが、最近自分のサイトを見ると、アドレスバーに「保護されていません」との表示を見るようになった。ちなみに、マイクロソフト・エッジやファイアー・フォックスにも何らかの形で、このサイトは安全上問題がある旨の表示がなされている。どういうわけかと思い、色々調べてみたところ、ネットのセキュリティを高めるための措置ということらしい。そのセキュリティ対策として、グーグルがサイト管理者にSSL化を求め、それに応えないでいるサイトに警告を出すようになり、ほかのブラウザーもそれに追随したということがわかった。ちなみに今日現在、インターネット・エクスプローラーはこうした対応を行っていない。

柳田国男は、大正九年の十二月から翌年二月にかけて九州東部から琉球諸島へかけて旅をした。「海南小記」はその折の紀行文というべきものである。柳田は大正八年の暮れに役所勤めをやめて在野の学者生活に入っていたが、その新たな門出を飾るものとして、日本各地を旅した。それはフォークロアの旅といってよかった。これらの旅を通じて日本各地に残されている風俗や伝説のたぐいを収集し、それをもとに自分なりの民俗学を確立したいという意図が働いたものと思われる。

 英策と成田山に初詣をし、宮小路の家で学海先生と話した日の数日後、小生はあかりさんとともに明治神宮に初詣をした。初詣をするとしたらどこがよいか彼女に聞いたら、彼女が明治神宮を指定したのだった。
capra07.life4.JPG

どんなにつらくても、努力すれば必ず報われる、何故ならこの世界は神の意志によって動いており、その神が努力する人を見捨てることはありえないからだ。こういう考え方を、ほとんどのアメリカ人が抱いている。そこにアメリカ人の根本的に楽天的な性格を感じ取ることができる。フランク・キャプラはそうしたアメリカ人の楽天性を、暖かいタッチで描き続けた映画作家だが、「素晴らしき哉、人生(It's a Wonderful Life)」はそんなキャプラの映画世界を代表する作品である。アメリカ人のほとんどは今でもこの作品を愛しており、この映画を見ると、生きていることの素晴らしさを心から実感するのだと言われている。

いわゆる満蒙開拓団が敗戦直後に、若い女性たちにソ連兵への「性接待」を強要していたということが明らかになり、ちょっとした反響を呼んでいる。この事実を明らかにしたのは、接待を強要された女性たちだ。彼女らのいた開拓団は、岐阜県旧黒川村から集団で満蒙開拓地に渡った人々だが、戦争に敗けるや現地の人々から「迫害」を受けるようになった。そこで治安の維持をソ連側に依頼したが、その見返りとして若い女性を「接待」要員として差し出したということだ。その女性たちは、戦後ずっと沈黙を続けていたが、年をとったいま、「なかったことにはできない」と言って、重い口を開いたということらしい。

honen1874.1.1.jpg

「江水散花雪」と題した三枚組のこの作品は、いわゆる桜田門外の変を描いたものだ。桜田門外の変とは、安政七年に水戸の浪士ら十数名が大老井伊直弼の一行を江戸城桜田門外で襲撃した事件だ。直弼は安政の大獄など強権的な手法で反対者を弾圧し、開国政策を推進していたが、それを攘夷派に恨まれ、当時の攘夷派の中心だった水戸の浪人たちによって排撃された。

88.12.1.jpg

これは「黄色い家」のゴッホの部屋に置かれていた椅子を描いたものだ。この変哲も無いものを絵のモチーフに選んだ画家はゴッホ以前にも、ゴッホ以後にもいない。椅子が付随的に描かれることはあっても、椅子そのものをこのように大写しに描くなどとは、誰の頭にも思い浮かばなかったに違いないのだ。

竹内好は「日本とアジア」と題した文章の中で東京裁判をとりあげ、それを次のように性格づけた。「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた。(日本の起こした)戦争は侵略戦争であり、したがって平和への侵害であり、当然に文明への挑戦である、というのが論告および判決の要旨であった」

 小説の草稿のコピーを区切りのいいところでその都度英策に送ってきたが、その感想を聞いてみたいのと、正月の初詣を兼ねて、小生は英策を誘って成田へ出かけた。いつか上野の谷中墓地を訪ねた時同様、乗る列車を示し合わせて、小生は船橋を十時頃に停車するその列車に乗り、英策は佐倉で乗り込んで来た。一番前の車両だ。これだと成田駅で降りた時に、改札口に一番近い。
capra06.war1.JPG

フランク・キャプラは、1942年から45年にかけて「我々は何故戦うかWhy We Fight」と題される戦意高揚映画のシリーズを作った。これらは劇場向けの一般公開を目的としたものではなく、軍人向けの教育映画として作られたものであり、アメリカ軍の依頼に基づくものである。全部で七作からなり、日独伊の枢軸国による無法な侵略を糺弾し、米軍兵士たちの戦意を高揚することをねらっていた。六作目までは、日独伊三国の無法行為を国別に紹介する手法をとり、最後の七作目は「アメリカの参戦」と題して、何故アメリカが第二次世界大戦に参戦したかについて、その経緯を描いている。それまでの六作についての総集編という位置づけを持つとともに、アメリカ参戦をオーソライズするものである。

honen1872.2.jpg

晁蓋は水滸伝に出てくる英雄のこと。晁蓋は東渓村に住んでいた。そこから谷を隔てた隣の西渓村には、夜ごと怪物が出て人々を苦しめていた。そこで西渓村の人々は仏塔を建てて怪物を折伏したところ、怪物はたまらくなって東渓村に逃げてきた。その事に怒った晁蓋は、西渓村から仏塔を盗んできて東渓村に立てたところ、怪物は逃げ去っていった。以後晁蓋は托塔天王と呼ばれるようになった。この絵はその物語をイメージ化したものだ。

大江健三郎の小説の世界は死を描くことから始まった。それと同時にセックスにも拘っていた。セックスは生きていることの最大の証であり、いわば死のアンチテーゼのようなものである。事柄の多くはそれ自体としてよりも、それの対立物とのかかわりにおいて最もよくその姿を現すものである。死も例外ではない。死もやはりその対立物たる生とのかかわりにおいて、もっとも明瞭にその姿をあらわす。しかして生の豊饒さはセックスにおいてもっとも純粋に表現される。セックスと死とはだから、不可分のつながりの中にあるのだ。

88.11.3.jpg

ジヌー夫人はアルルで知り合った女性である。カフェの経営者だった。ゴッホは1988年11月にこの女性の肖像を二点油彩画に描いている。これはそのうちの一枚。この他ゴッホは、1890年2月に、ゴーギャンの描いた夫人の肖像を下絵にした作品も作っている。特別の親しみを感じていたのだろう。

capra05.smith1.JPG

フランク・キャプラの1939年の映画「スミス都へ行く(Mr. Smith Goes to Washington)」は、アメリカ上院の議事の様子をテーマにしたものである。アメリカ上院にはユニークな議事慣行があって、いかなる議員も他の議員の妨害を受けずに自己の主張を続けることができる。基本的には無制限に演説を続けることができるのである。これはおそらく少数意見の尊重を目的としたものだと思われるが、場合によっては議事妨害の手段にもなる。実際映画の中でも、議事妨害だと言っているものもいる。しかしそれによって少数者の意見が尊重される効果はたしかにある。とかく少数派の意見がコケにされる日本の議会にも、見習う価値があるのではないか。

トランプの対中国政策が過激さを増している。中国からの輸入に全面的に関税をかけることで、中国との経済戦争に点火させることをいとわないばかりか、最近は政治的・軍事的側面でも対中国全面対決をにおわす政策を打ち出している。中国を意識した国防力の強化や、リムパックから中国軍を全面的に締め出すといった政策だ。こうした政策を目のあたりにすると、トランプは本気で対中戦争に踏み切るつもりではないかと思わされるところだ。

「山人考」は「山の人生」とともに大正十五年に出版されたものだが、実際に書かれたのは、「山の人生」が大正二年以降、「山人考」が大正六年とされている。しかしてこの両者は綿密な関連を有している。柳田は「山の人生」によってたどり着いた仮説を前提にして、「山人考」の言説を展開しているのである。学問的な方法論によれば、「山の人生」では個々の現象をもとに一定の法則性を導き出し、それを仮説として整理した上で、今度は個々の現象を仮説によって説明するというやり方をとっているわけである。

 廃藩置県によって藩知事を免ぜられた旧藩主堀田正倫公は政府の方針に従って東京に居住することとなった。一方大参事以下の旧藩士は当分の間現職にとどまるべしとの指示が出された。学海先生もそのまま権大参事の職にとどまったが、いずれ近いうちに辞職するつもりでいた。もはや佐倉藩としての実体を失い、中央政府の出先と化したところにとどまるべきいわれはないと考えたからである
capra04.wagaya3.JPG

フランク・キャプラは楽天的なアメリカン・ライフを軽快なタッチで描き出すことが得意だった。1938年に作った「我が家の楽園(You Can't Take It With You)」はその彼の代表作と言える。この映画には底抜けの楽天主義と、それを支える人間たちへの無条件の信頼がある。それでいて、アメリカ映画にありがちなプロテスタント臭さがない。徹底して現世主義的である。原題の You Can't Take It With You とは、金はあの世までは持っていけない、という意味だが、これは主人公の老人が金持ちの老人に向かって吐く言葉だ。いくら金を稼いでも、あの世までは持っていけない。人間の幸福は金では測れない。あの世ではなくこの生きている世の中を楽園に変えるには、もっとほかにやることがあるだろうと言うわけである。

深刻な人手不足を背景に、経済界が外国人の受け入れを拡大して欲しいと安倍政権に強く要望したところ、安倍晋三総理はそれに応える決断をしたと言う。ただし条件付きで。これは移民を容認することではなく、あくまでも短期的な外国人労働の需要に応えるものだと。

honen1872.1.jpg

「一魁随筆」とは題していても、文集ではない。錦絵のシリーズである。ここでいう「随筆」とは、勝手気ままに描いたものというほどの意味らしい。全部で十三図からなる。いずれも題名を記した枠を配しているが、その枠の左側には北斗七星の第一星「魁星」が、右側には北斗七星の「斗」の字があしらわれている。

NHKが放映した特集番組「駅の子」を見て、色々考えさせられた。「駅の子」というのは、戦後大量に生まれた戦災孤児たちが、上野を始めとした大都市の駅周辺にたむろしていた様子を表現する言葉だ。こうした戦災孤児は、大都市の駅に限らず、戦後日本のあちこちに大量にいたと思われるのだが、その実態についてはこれまであまり知られることがなかった。この番組はその間隙のようなものを埋めようとする意気込みが感じられ、その意味では評価できると思うのだが、なにせ戦後時間が経過しすぎたこともあり、全貌にせまることは出来ていない。

88.10.1.jpg

ゴッホは1888年の9月に、既に借りていた「黄色い家」の部屋に移りすみ、そこで本格的な生活を始める。その部屋をゴッホは何枚か描いた。これはその最初のものだ。やがてゴッホはこの部屋にゴーギャンを迎えることになる。

竹内好が「戦争責任」という言葉を使って日本人の戦争責任問題を正面から論じたのは1960年前後のことだが、その背景には戦争責任の腐蝕現象というべきものがあった。戦後もこの頃になると、戦争を体験しなかった世代が増えてきて、その連中を中心にしていまだに戦争責任もないだろうというような雰囲気が出て来た。竹内がその代表としてあげるのは「怒れる若者たち」と言われる連中だ。この連中は前世代との断絶を標榜し、いまだに戦争にこだわることをバカバカしいと主張した。こういう連中が現われるのは、戦争を体験した世代の戦争についての語り方が、きわめて主観的かつ情動的で、他者との相互理解を深めるような一般化のプロセスが欠けているからだと竹内は考える。体験に埋没している体験は真の体験ではない。それは言葉を通じて一般化されることで初めて真の体験として共有されるというのである。

日本ボクシング連盟が、会長を先頭にして不正を働いていたというので、大騒ぎになっている。それを見ていると、どうもこれはボクシング連盟だけの問題ではなく、日本的な組織そのものの持つ病理と言うか、生理のありようが反映していると思わざるを得ない。

 学海先生の東京での生活は当初の見込みを越えて長引いた。その間先生は無為に過ごしたわけではない。東京の藩邸にあって藩の訴訟事項の裁定に当たっていた。その裁定ぶりの一端を前に紹介したところだが、更にいくつか紹介してみよう。それらを見ることで学海先生の司法感覚のようなものを窺い知ることができるだろう。
capra03.lost2.JPG

フランク・キャプラの1937年の映画「失はれた地平線(Lost Horizon)」は、欧米版桃源郷物語といってよい。また竜宮城物語にもいささか似ているところがある。現世の人間が山奥の理想郷に遊び、再び人間世界に戻ってくると言うのは、陶淵明を始め中国人が好きなテーマだ。また、久しぶりに人間界に戻ったものが、一気に数十年も年をとるというのは日本の浦島太郎を思わせる。ちょっと違うところは、その桃源郷が自然のものではなく、どうやら人工的に作られたことになっているところだ。しかもそれを作ったのが欧米人であるベルギー人の牧師になっているところが、いかにも欧米人らしい。地球上の事柄は、何につけてもすべて欧米人の支配下にあるといった文明論的な思い込みが感じられる作品である。

慣例に従って長崎の原爆平和記念式典に参加した安倍晋三総理が、何故あなたは被爆国の首相として核兵器禁止条約に署名しないのかと、被爆者の代表者たちから質問されたときに、その質問には答えないで、次のように言った。日本としては、核兵器保有国と非保有国との橋渡しをすることが大事だ、と。

honen1868.9.jpg

「和漢豪気術」は明治元年に刊行された武者絵のシリーズもので、全十図からなる。和漢と題しているが、「和漢百物語」が主に妖怪をテーマにしているのに対し、こちらは武者をはじめ講談の世界の英雄たちを描いている。

大江健三郎は一部の日本人から蛇蝎の如く忌み嫌われているが、その理由がこの小説(芽むしり仔撃ち)を読むとよくわかる。大江はこの小説、それは彼の初期の代表作と言ってよいが、その小説の中で、今でも一部の日本人が固執している「美しい日本」神話に水を浴びせかけているのだ。大江がこの小説の中で描いている日本人は卑劣で狂暴な人間たちである。その卑劣で狂暴な人間たちが、自分たちの力を振り回して弱い者をひねりつぶす。ひねりつぶされたものたちには、抵抗するすべもない。ただ巨大な力におしつぶされ、場合によっては家畜のように屠殺されるのだ。

88.9.3.jpg

ゴッホはアルルで知り合ったズアヴ兵ミリエ少尉の油彩画の肖像を三点描いているが、これはその一つ。前回紹介した「ズアヴ」の中のミリエ少尉とはかなり違うイメージに描かれている。「ズアヴ」のミリエ少尉はアルジェリア風のエキゾチックな服装と精悍な表情をしているが、この絵のミリエ少尉はフランス風の軍服に身を包み、表情は穏やかである。

capra02.opera3.JPG

フランク・キャプラの1938年の映画「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town)」は、純朴な田舎者と都会ずれした女記者との一風変わったラブ・ロマンスである。バーモントの田舎町でチューバを拭いていた青年(ゲーリー・クーパー)が、叔父が死んだことで2000万ドルの大金を相続することとなり、ニューヨークに移り住む。するとその金を目当てに色々な連中がたかりにやって来る。その中で、新聞記者のベーブという女性(ジーン・アーサー)は、俄成金を面白おかしく笑う記事を書くことを目的に彼に近づく。


翁長沖縄県知事が壮絶と言ってよい死を死んだ。辺野古への米軍基地建設を巡って安倍政権と鋭く対立し、内地の日本人の心ない中傷にさらされながら、沖縄人としての誇りと意地をかけて戦っていた最中での突然の死であり、その壮絶な死に方はまさに戦死と言ってもよかった。

「山の人生」は「遠野物語」の続編のようなものである。「遠野物語」では岩手県の遠野地方に伝わっている説話や伝説、昔話などを収集していたものを、エリアを全国に広げて大きな規模で収集したものだ。ただし収集の対象となった話は、ほとんどが山とそこに住む人々とに関するものだ。山に住む人々には色々なタイプがあり、また人とは言えない生きもの、例えば天狗とか河童とかいうものも含まれるが、そうした者たちと平地の人々との関わり合いを主な対象としている。題名の「山の人生」には、そうした姿勢が反映されているわけである。

 明治四年の正月を学海先生は東京で迎えたので、元旦には礼服を着て皇居に参朝し、大広間で天顔を拝した。また四日には神祇官に赴いて三殿を遥拝した。先生はすでに集議院議員を解任されていたが、国家に特別の功があったとしてこれらの参拝を許されたのであった。それについては、先生の方も誇りのようなものを感じたらしい。新政府を牛耳る薩長の芋侍たちは気に入らぬが、国家の象徴たる天皇や神祇官には相当の敬意を表したのである。
capra01.happen1.JPG

フランク・キャプラはウィリアム・ワイラーと並んで初期のハリウッド映画を代表する監督だ。1934年の作品「或る夜の出来事(It Happened One Night)」は、そのキャプラがはじめてアカデミー賞をとったもので、彼の代表作の一つである。いわゆるロードムービーの古典的傑作と言われている。ロードムービーというのは、一定の目的を持って或る場所をめざす人物が、その旅の途中で経験する様々な出来事を描くというものだが、この映画はそれに男女の恋愛をコメディタッチで絡ませ、楽しい雰囲気のものになっている。

広島で行われた原爆平和記念式典に、今年も安倍晋三総理は慣例にしたがって出席し、演説した。その演説には、広島の人々を始め核兵器の廃絶を願う人々が、安倍晋三が総理大臣として核兵器のない世界の創出への決意と、その具体的な意思表示として、122か国が賛成した核兵器禁止条約へ参加するように決意する言葉を期待したが、安倍晋三はこの条約の名も出さず、核兵器の廃絶を強く主張する言葉も言わなかった。数年前にオバマとともにこの式典に臨んだ時は、オバマと口裏をあわせるかのように、核兵器の廃絶を叫んでいたわけだから、これは大きな転換というべきだろう。

honen1868.6.jpg

秦桐若は戦国時代の武将で、黒田官兵衛の家臣だった。無類の勇者として知られ、三十三人の首をとったと言われる。一丈の旗指し物に唐団扇が目印で、これを見た敵は近づくことをためらったとされる。

村上春樹がFM放送でディスク・ジョッキーをやるというので、一か月前から楽しみにしていた上に、家人からラディカセを借りて、事前に音の調子を試したりして準備万端整えて放送開始に臨んだところが、ちょうど夕飯時に重なったので、ラヂオを食卓に持ち運んだら、食事中ラヂオを聞くのは行儀が悪いから、ラヂオを聞き終わってから食事にしなさいと言われたが、村上レディオを聞いた後では引き続きNHKのセゴドンを見たいから食事をしている暇がなくなるといって、小生はそのまま食卓の上にラヂオを据えたまま、耳にイアホンを突っ込んでラヂオを聞きつづけたのだった。

88.9.2.jpg

これは夜のカフェの内部を描いたもの。正面の時計から、夜中の十二時を過ぎていることがわかる。こんな夜中に、幾組かの客がテーブルに腰かけて、ひそひそ話をしたり、眠りこんだりしている。独り玉突き台の脇に立っている男だけが、元気そうに見える。

「近代の超克」とは、竹内が言っているように、「戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった」。この言葉の直接の出どころは、雑誌「文学界」が1942年9、10月号にのせたシンポジウムであるが、それとほぼ同じような議論が、1941年から42年にかけていわゆる京都学派によって展開され、それが雑誌「中央公論」に掲載された。この二つをあわせて「近代の超克」を論じるのが普通である。広松渉の「近代の超克論」も、この二つをターゲットにして論じている。

 目を覚まして枕もとの時計を見るともう九時になっていた。あかりさんは既に起きていて窓の近くの椅子に腰かけ身づくろいをしている。
「おはよう」
 小生が声をかけると、あかりさんは化粧の手を休めて小生の方を向き、
「よく眠れた?」と言った。
「よく眠れたよ」
そう小生が答えると、
「あなたって本当に寝相が悪いのね、おかげでベッドから落ちそうになったりして、よく眠れなかったわ」
「そんなに寝相が悪かった?」
「いびきもかいていたわ」
「それは悪かった。でも僕はよく眠れたよ。君の分まで寝てしまったようだね」
 どうも寝際に頑張りすぎたせいと、アルコールのために、いびき迄かいてしまったようだ。それはあかりさんに対して申し訳ないことをした。そう小生は反省したのだった。
porn06.amaki1.JPG

藤田敏八は神代辰巳とならぶロマンポルノの旗手として、1970年代に活躍した。ポルノだけではなく、一般の映画でも佳作を作ったことは、神代と同じだ。藤田の場合には、山口百恵などを起用したいわゆるアイドル映画を作った。

栃木女児殺害事件の控訴審判決で、一審の判決が、被告の自白した場面を録音・録画した映像から犯罪事実を認定したのは違法だと指摘したうえで、複数の状況証拠を総合的に判断して有罪だと認定し、あらためて無期懲役の判決を下した。この判決に対しては、法曹界から大きな批判で出ている。その批判を判決に照らし合わせながら読むと、我が国の刑事司法が抱えている問題点が浮かび上がって見える。それを一言でいえば、冤罪の温床がいまだそのままに残っているということだ。

honen1868.5.jpg

森力丸は、蘭丸、坊丸とならんで森三兄弟として知られ、ともに織田信長の小姓をつとめた。天正十年の本能寺の変では、信長の脇に従い、最後まで戦って討ち死にした。享年十五歳であった。

大江健三郎は「人間の羊」において米兵から侮辱されて泣き寝入りする惨めな日本人を描いたが、続く「見る前に飛べ」も同じようなテーマを取り上げている。この小説でもやはり、外国人であるフランス人から侮辱されて、それに対して何も言わずにすごすごと引き下がる日本人を大江は取り上げている。「人間の羊」と多少違うところは、米兵から侮辱された日本人である僕に対して、たまたま居合わせた他の日本人たちが無関心を装ったのに対して、この小説では主人公のぼくは、ひとりで孤独にその侮辱に耐えているという点だ。

88.9.1.jpg

ゴッホはアルルの夜のカフェを描いた絵を二枚残した。一枚は「貧しい夜の放浪者が眠る」と彼自身が言うところの労働者向けのカフェ、もう一枚はこの絵である。これはアルルの町の中心部フォルム広場に面したカフェを描いたものである。

porn05.nureta2.jpg

「恋人たちは濡れた」というタイトルからは、男女が性交のエクスタシーの中で濡れに濡れそぼつというイメージが思い浮かんでくるが、このタイトルにはそれ以外のメッセージも込められているようだ。この映画に出て来るカップルは、最後には嫉妬した第三の男によって襲撃され、海に向かって自転車で疾走した挙句に、水につかってしまうのだが、その水に濡れる不幸な恋人たちというようなイメージも含んでいるのである。

柳田国男には若い頃から、伝説や民話及び土地々々に言い伝えられてきた事柄について広く収集しようとする姿勢が強くあった。そうして集めた資料を、どのように利用したか。一つは柳田なりの問題意識に基づいて立てた仮説を実証するための一次資料として利用することもあるし、一つは資料そのものをとりあえず収集し、将来その資料をもとに、新しい仮説の発見につなげようとすることもある。その仮説とは法則のような形をとることもあるし、ゆるやかな傾向性という形を取ることもあるだろう。いずれにしても、資料をもとにして、一般的な妥当性をもつ仮説を導き出したり、あるいは仮説を実証しようとする姿勢は、実証主義的な姿勢と言うことが出来る。前稿「海上の道」の考察で言及したように、柳田の学問の基本は、あくまでも実証を重んじるというものだった。

 十二月の半ば過ぎに小生はあかりさんと京都へ一泊の旅をした。彼女の方から誘ってきた旅だった。教育委員会主催の会議が京都であり、東京都を代表して彼女が派遣されることになった。会議は半日で終わるのだがそのまま京都で一泊できる。いい機会だからあなたと一緒に行きたいと言うのだった。小生は是非もなく連れて行って欲しいと言った。
porn04.yojo4.JPG

日活は1970年代から80年代にかけて、ロマンポルノと称される一連のポルノ映画を制作した。ポルノとはいえ、今日のアダルト映画とは異なり、芸術性を感じさせる作品もあった。神代辰美は日活ポルノを代表する監督である。その神代が作った作品で、しかも日活ポルノの代表作といわれるのが「四畳半襖の裏張りしのび肌」である。題名からして荷風散人の手慰み「四畳半襖の下張り」を思い出させ、実際筆者などはてっきりその映画化だと思い込んで見た次第だったが、内容は荷風散人の「四畳半」とは全く無関係だった。

最近のコメント

アーカイブ