オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town):ウィリアム・ワイラー

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フランク・キャプラの1938年の映画「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town)」は、純朴な田舎者と都会ずれした女記者との一風変わったラブ・ロマンスである。バーモントの田舎町でチューバを拭いていた青年(ゲーリー・クーパー)が、叔父が死んだことで2000万ドルの大金を相続することとなり、ニューヨークに移り住む。するとその金を目当てに色々な連中がたかりにやって来る。その中で、新聞記者のベーブという女性(ジーン・アーサー)は、俄成金を面白おかしく笑う記事を書くことを目的に彼に近づく。

こうして一組の男女が近づきになるのだが、青年のほうはまれに見る純粋さで、それがかえって普通の人間には滑稽に映る。その滑稽さを女性記者は記事に書いて、大人気を博す。記事の中でシンデレラ・マンとからかわれた青年は、自分をからかった当の本人であることを知らず、女性に夢中になる。そのうち女性の方も青年の純朴さに心を打たれ、愛するようになる。

しかし、青年の金を狙う悪徳漢たちがグルになって、青年を禁治産者にして金を巻き上げようとする。青年が全財産を慈善事業に投じようとするのを見て、金がなくならないうちになんとかしようとしたのだ。かくして青年は法廷で裁かれることとなる。

ところが青年は弁護士も立てず、言い訳もしない。精神状態が落ち込んでしまって、そんなエネルギーがないといった風情なのだ。それには愛する女性に裏切られたというショックも働いている。

このままでは、不利な証拠ばかり採用され、青年は禁治産者と宣言されてしまう。その絶体絶命というところで、青年は突然めざめたように自己弁護を始める。その弁護がいかにも説得力に満ちていたので、青年は逆転勝利して、禁治産者の宣告をまぬかれる。そこで青年は記者の女とよりを戻し、ハッピーエンドとなると言う具合だ。

こんなわけだから、映画の作りとしてはコメディタッチなのだが、必ずしもそうは見えないのは、ゲーリー・クーパーの表情がものを言っているのだろう。また、法廷で繰り広げられる審問の場面も、論理と心理とがからみあって、シリアスな雰囲気に満ちている。そういう事情もあって、もともと喜劇的な筋書きなのに、まじめな感じに見えてしまうわけだ。

見どころはいくつかあるが、なかでも面白いのは、参考人として呼ばれた心理学者が、青年の精神状態を分析するところだ。それによれば青年は躁鬱病の患者だという。青年がハイになって常軌を逸した行為をしたのは躁状態の時であり、逆にいま言い訳もしないで黙ってうなだれているのは、鬱状態にあるためだと言う。それを聞いていた青年は、次第にうつ状態から立ち直り、ついには正常の状態に復する。その状態で彼は自己弁護を始め、それが論理的にも心理的にも迫力あるものだったので、勝利を勝ちとったということになっている。

その審問というか裁判の様子が非常に興味深い。日本の裁判とはまるで違っていて、裁判官は気取っていない。誰でも気楽に証言台に立つことができるし、また傍聴席にいる人たちも、極端にならない程度なら、発言を許される。なかでも被告である青年が、突然発言を始めた時には、裁判官もほかの人たちもそれに熱心に聞き入っている。そうなると、被告と原告とが一対一で向き合って対決するというような構図になり、そこで口の達者なほうが勝利を収めると言う具合になる。その辺はいかにもアメリカ的という印象を受ける。

題名のオペラハットは映画の本筋にはあまり関係がない。青年が関わり合いになった事業にオペラがあって、それが赤字経営になっているのを、青年が批判する場面が出てくるが、それにいくらかかかわりがあるくらいのものだ。






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