見る前に飛べ:大江健三郎

| コメント(0)
大江健三郎は「人間の羊」において米兵から侮辱されて泣き寝入りする惨めな日本人を描いたが、続く「見る前に飛べ」も同じようなテーマを取り上げている。この小説でもやはり、外国人であるフランス人から侮辱されて、それに対して何も言わずにすごすごと引き下がる日本人を大江は取り上げている。「人間の羊」と多少違うところは、米兵から侮辱された日本人である僕に対して、たまたま居合わせた他の日本人たちが無関心を装ったのに対して、この小説では主人公のぼくは、ひとりで孤独にその侮辱に耐えているという点だ。

「人間の羊」には正義を振りかざすいかがわしい人物(教員)が出てきたが、この小説にも同じような人間たちが出てくる。大学の左翼学生だ。かれらは僕に向かって正義の議論を吹きかけ、ぼくがそれに反発すると暴力沙汰になる。日本人同士の暴力沙汰ならたいした面倒はないと思われたか、その暴力沙汰は周りの日本人たちによって引き分けられる。もしぼくが外国人に暴力を振るわれていたのなら、周りの日本人たちは無関心を装ったかに違いない。

ぼくがフランス人から侮辱されたというのはこういうことだ。ぼくには娼婦のガールフレンドがいて、そのガールフレンドにはフランス人のパトロンがいるのだが、そのパトロンに向かってぼくは、エジプトかベトナムへ行って戦いたいと常々言っていた。ところがそのフランス人がベトナムに特派員として行くことになったらお前を連れて行ってやると言う。ぼくは突然の申し出にどうしたらよいか途方にくれる。それを見たフランス人は、ぼくが口先だけで実は臆病なことを見抜き、僕に侮蔑の言葉を投げかける。その言葉のなかでフランス人はある詩の一節を紹介する。それは「見る前に跳べ」というような趣旨の言葉だった。つまりこのフランス人はぼくを跳ぶ勇気のないつまらない人間だとなじったわけだ。

なじられたぼくはそれに反発するどころか納得してしまう。「おれは現実の壁際迄歩いて行くが、そこから尻尾をまいてひきかえす、いつもそうだ、とぼくは考えた。おれは見てばかりいる、決して跳ばない、おれは卑怯だ」というわけである。

だがそのフランス人が汚くてちっぽけな日本人を有楽町の臭いドブ河に投げ込んで溺死させたと聞かされた時には、ぼくは逆上した。そのフランス人は「その時、日本人の群衆はおれたちをリンチするかわりに、黙ってみていたぜ」と語りながら、「かれらの投げ込んだ日本人がいかに地虫のようにみじめで汚らしくてつまらないものであったかを説明し、くどくどくりかえした」からである。つまりぼくは自分自身を侮辱されただけでなく、ぼくをふくめた日本人全体を侮辱されて怒りを覚えたわけだ。そこがこの小説の「ぼく」が「人間の羊」の「僕」と違うところだ。人間の羊の僕が文字通り羊のようにおとなしく無気力だったのに対して、この小説のぼくには侮辱した相手に怒りをぶつける気力があったわけである。つまりぼくはそのフランス人を打ちのめしてしまうのだ。

小説の後半は、たまたまフランス語を教えることになった女学生とぼくとの関わりあいを描く。ぼくはその女学生とは横浜のミュージックホールで出会っていた。フランス人とガールフレンドと三人でそこで遊んだ時に、貧弱な体付きで下手な歌を歌っていたのが彼女だったのだ。そんなわけで彼女は決して魅力的には描かれていないのだが、なぜかぼくは彼女と男女の関係になってしまい、挙句の果ては彼女を妊娠させてしまう。面白いのは、それまで人生を斜めに見ていたぼくが、いきなり常識人に早変わりしてしまうことだ。ぼくは女学生の妊娠に責任を感じ、彼女と正式に結婚したうえで子供を出産させようと考える。そこでガールフレンドとも別れてしまう。ところがどういうわけか、彼女は出産に耐えない体質で、妊娠した子どもは堕胎せねばならぬと医師に宣告される。

こういうわけで彼女は子どもを堕胎するのだが、子どもを堕胎するのと合わせて、それまで育んでいたぼくとの愛も堕胎してしまう。つまり彼女はぼくを捨てて郷里へ帰ってしまうのだ。なんでこんな展開になってしまうのか、ちょっとわかりづらいところがあるが、いづれにせよ捨てられて絶望的になったぼくは、再びもとのガールフレンドとよりを戻すのだ。そのガールフレンドはしばらく見ないうちに一層年をとって醜くなっていた。それは客を選ばず誰とでも寝るというすさんだ生活ぶりの反映だったらしい。つい最近は日本人とも寝たと彼女は言った。「つまんないちっぽけな日本人」。その日本人はたったの三十秒で性交を終わらせてしまったのだ。「三十秒でおしまいなのよ、あんながっかりしたことなかったわ」と彼女は言うのである。

そんな彼女を見ながらぼくは、じぶんもちっぽけな日本人にすぎないと自嘲する。そんな自分自身のちっぽけさにぼくはおののくのだ。そんなぼくにはいつまでも跳ぶ勇気は沸いてこないだろう。ぼくはいつだって見ているだけで、跳ぶことができないのだ。

「ぼくはおびえきって、決して跳ぶ決意をできそうになかった。そして結局、二十一年のあいだぼくはいちども跳んだことがないとぼくは考えた。これからも決して跳ぶことはないだろう」。ぼくはこう思うのであるが、ただそう思うだけで、それがどのような意味を持ち、またそれにどう対処すべきなのか、ぼくにはどんな考えも浮かばないのだ。

こんなわけでこの小説は、筋書きの展開という点で締まりがないように見えるし、文章にも以前の短編小説のような緊張感が感じられない。ちょっと長めの小説を初めて書いたことによるのかもしれない。







コメントする

アーカイブ