疑わしきは被告の不利益に:栃木女児殺害事件控訴審判決

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栃木女児殺害事件の控訴審判決で、一審の判決が、被告の自白した場面を録音・録画した映像から犯罪事実を認定したのは違法だと指摘したうえで、複数の状況証拠を総合的に判断して有罪だと認定し、あらためて無期懲役の判決を下した。この判決に対しては、法曹界から大きな批判で出ている。その批判を判決に照らし合わせながら読むと、我が国の刑事司法が抱えている問題点が浮かび上がって見える。それを一言でいえば、冤罪の温床がいまだそのままに残っているということだ。

批判の要点はいくつかに絞られる。物的証拠が一切なく、状況証拠だけを有罪の根拠にしていること。殺害の時間や場所が特定できておらず、被告がいつどこで犠牲者を殺害したのか、何も明らかになっていないことなどだ。特に、犯罪の場所や時間が明らかになっていないことは、刑事裁判としてはありえないことだ。そのありえないことを、有罪に導くために、状況証拠を都合よく使ったのではないか。これでは疑わしきは罰せずとの原則に反するし、検察のメンツを重く見るあまり、被告の冤罪の可能性が払しょくできていない、というのが批判の主な理由だ。

他の先進国では、冤罪の危険性を防ぐために、検察による犯罪事実の認定には厳しさが求められる。かりにも、殺した時間や場所がわからないなどということは、ゆるされない。また、状況証拠だけをもとに犯罪を認定することは許されず、犯罪事実の認定には確固たる物的証拠の提出が求められる。今回の控訴審判決は、そのいずれの要件をも欠いたもので、他の先進国なら、当然無罪になるところだ。

それが有罪になったのは、どうも被告の人権よりも司法のメンツを重んじる我が国の伝統的な刑事裁判のあり方に由来しているようである。こうしたあり方が過去に多くの冤罪事件を生んできたわけだ。

いまや、死刑執行を取り入れている国は、先進国では、アメリカの一部の州と日本だけだ。日本は、そのことについての諸外国からの批判に、耳を貸す様子を見せないが、それは裁判制度がきちんとしていて、冤罪の可能性がほとんどないといった情況で初めて通る話であって、裁判がいい加減であり、冤罪の可能性が大きい状況では、死刑執行に重大な障碍要因となりかねない。死刑執行を今後とも続けるつもりならば、今回のような裁判はやめにして、疑わしきは被告の利益にという原則に沿った裁判を確立する必要があるだろう。





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