学海先生の明治維新その五十四

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 学海先生の東京での生活は当初の見込みを越えて長引いた。その間先生は無為に過ごしたわけではない。東京の藩邸にあって藩の訴訟事項の裁定に当たっていた。その裁定ぶりの一端を前に紹介したところだが、更にいくつか紹介してみよう。それらを見ることで学海先生の司法感覚のようなものを窺い知ることができるだろう。
 下級藩士福島栄之助というものの養母が、栄之助に粗末に扱われていると言って藩に訴え出た。法曹担当は栄之助の罪を責めたが、学海先生は異なった判断を下した。この男は蓋し孝養の道について学ぶことがなかったのだろう。その道を教えないでただ罪を問うばかりでは能がない。ここはひとつ藩としてこの男を教育しなおす必要がある。そこで誰がその教育に当たるかが問題となったが、学海先生自ら教育してやろうと申し出た。
 他日学海先生は栄之助を呼び、孝養の道について説き聞かせた。ところが栄之助は養母の至らざるところを一々指摘し、自分と養母との間の曲直を比較した。それを聞いて学海先生は言った。
「父母は極く尊い者じゃ。曲直を比較すべきものではない。ただただその言うところに従うのが子としての務めじゃ」
 しかし栄之助には一向に改める様子がない。学海先生はその強情さに呆れるばかりであった。
 物井村の村民が村長を横領の罪で告発したが、どういうわけか藩がこれを取り上げなかったところ、民部省の聴訟司に直に訴え出た。ところが民部省ではこれを各藩の領内の事案だとして、佐倉藩に移送してきた。そこで学海先生が村民の話を聞いて裁定を下すことになった。
 村民が言うには
「物井村の金剛院が廃止されたあと、その跡地に生えておりました林草を、村長が勝手に町人と謀って売りさばき、その代金の一部を横領したのでございます」
 これを聞いた学海先生は、人命にかかわるような重大事件なら、藩を通り越して民部省に越訴することもあろうが、かかるつまらぬ事案で越訴するとは大袈裟すぎる。こんなものを民部省も忙しくて相手にしておれぬだろうと考え、藩としても面子がつぶれると思ったのであった。そうは言っても裁定を出さぬわけにはいかぬので、別途事実を確認したうえで、もし村民の言うとおりなら横領の罪を問うであろうと言い渡した。
 藩士の岩崎啓介がその兄との間でいさかいをおこし、兄を藩に訴えた。訴えの内容は、兄が啓介を牛馬の如く使役するのはけしからぬので、やめさせてほしいというものだった。これを聞いた学海先生は次のように言い渡した。
「兄弟の間は天倫にしたがって行われるべきものじゃ。天倫というのは、高きところの水が低きに流れるように、先に生まれた兄が後から生まれた弟をいつくしみ、逆に弟は兄に従うことを言う。しかるに弟が兄との間で、曲直を較して反顔するのは道を失うこと大なるものがある。よって岩崎啓介の主張にはいわれがない」
 こんな具合に学海先生の裁定は行われた。一読してわかると思うが、学海先生の裁定の基準は儒教的な名分論の思想だったと言えよう。
 学海先生はこのように藩務に従うほかに、国政にかかわる情報の収集にも意を配った。情報源としてはあいかわらず竹内孫介が役に立った。ある日学海は孫助からかなり有益なことを聞いた。孫助が言うには、目下政府が最も力を入れているのは官制改革と貨幣規則の制定であるが、そういった表向きのことがらに並行して、この国の統治の根本にかかわることが密かに進んでいると言う。それを一言でいえば従来の封建制度を完全に廃して全国に郡県制度を施行することだと言う。
 封建を廃して郡県を設ける議論については、学海先生はそれまでも何度か聞いたことがあった。しかしまだ先のこととしてあまり興味を覚えることはなかった。ところが孫介によれば、その実施は目と鼻の先に迫っているらしい。その場合、問題となるのは各藩の抵抗である。王政復古を宣言する時にもそうした抵抗は予想されたが、新政府はなんとはそれをかわして、王政復古を実現した。それは王政復古によって各藩の利害がすぐにどうのこうのと変わることが予想されなかったから、抵抗もなしに済んだということだった。ところが郡県制度の導入は各藩の従来の利害を完全に否定するものだ。抵抗がないわけはない。
 孫介は話を続けた。
「そんなわけで、薩長土の諸藩では、郡県制度を確実に行うためには、強力な武力が必要と考えているらしい。その軍事力を以て強行突破しようというわけでしょう」
「薩長土が武力で以て全国を支配し、自分たちでその分け前にあずかろうというわけか。足利や徳川と同じことを狙っているわけですな」
「さよう。その場合にカギとなるのが薩摩藩です。薩摩には西郷がいて、全国の不平士族に隠然たる影響力を及ぼしてござる。また実質上の藩主久光は大名としての自分の地位にこだわってござる。彼らに反旗を翻されては、郡県制度は円滑には実施できない。そこで長州の木戸や薩摩の大久保が中心となって、西郷の抱き込みと久光の骨抜きをはかり、また薩長土三藩の藩兵を中核とした政府軍を作ろうとしておりまする」
「その動きはどのあたりまで進んでおるのでござろうか?」
「この動きはほぼ最終段階に至っていると思います。もうすぐ郡県制度の施行が宣言されるはずです」
「そうなると各藩はどのようになりますかの?」
「郡県制度の施行は廃藩置県という名義で行われるようです。従来の藩を廃止して、それに代わって県を設ける。県には従来の藩は関係させない。今ある県と同様に、中央政府が直接統治し、県知事も中央政府が任命するのです」
「すると藩主はお払い箱になり、我々藩士は主人を失って浪人の境遇に陥るわけですか?」
「そういうことになりますな」
「それは一大事じゃ。しかしどうあがこうと、その流れを変えることは出来ぬのじゃろう?」
「さよう、我々昔ながらの武家は時代に取り残されて没落していくのみです」
 こんな話を聞かされて学海先生はすっかり気分が滅入ってしまうのだった。
「今日拙者がお話したことはあまり他言なさらぬほうがよろしい。先日も官制改革やら貨幣制度やらについて意見を述べた者が、政府の秘密事項を云々するのはけしからぬとして尋問されたと言います。貴殿も気をつけたほうがよろしい」
 孫介はそう言って学海先生に念を押した。
 学海先生は五月の中頃妻子を佐倉に返した。藩の行政改革の一環として、東京藩邸のスリム化がはかられ、無用の藩士や家族は極力国元に帰らせる方針がとられたのであった。これには新しい戸籍制度の影響もあったらしい。日本はそれまで人口の管理を寺院の人別帖を通じて行っていたが、それに代わって近代的な戸籍制度を作ることになった。それにともない、藩士の戸籍は国元において作ることとされた。これがどういうわけか、住所を戸籍と一致させるべきだとの議論になって、大勢の藩士やその家族を国元に送り返す動きにつながった面があるようなのである。
 これに先立ち学海先生はご母堂と妻子を伴ない麻布の長坂でそばを食った。この蕎麦屋は長坂更科といって東京でも名うての蕎麦屋であった。かつては東京都庁にも店を出していたので、小生もよく世話になったことがある。麺が細いのが特徴だ。
 学海先生自身も七月三日に東京を立って佐倉に移った。途中大和田が原を過ると稲が青々と色づいていた。先生が佐倉を出たのは昨年の十二月半ばのことであったから、半年以上が過ぎていたわけである。
 宮小路の家は改修がほとんど済んでいたが、書斎がまだできていなかった。ともあれ快適に暮らせそうな家に見えた。敷地は広く、日当たりはよく、風のとおりも抜群だ。これなら夏の暑さもしのぎやすいであろう。
 廃藩置県の詔書が下されたのは七月十四日である。その翌日、諸藩の参事が皇城に召集されて、天皇から直接、廃藩置県の詔勅を賜った。詔勅には次のようにあった。
「朕先つとし諸藩納土の説を納て藩主して知事たらしめたれども、徒にその名ありてその実なし。億兆を保安し万国と対峙の効を為こと能はず。よって今藩を廃して県となす」
 この詔書に接した学海先生は、
「於是、本藩知事公も免官せられ給ふ。余はかねてかくあらんとは思ひし。されどかく速に行わるべしと思ひかけざりし」と日記に書いて、その感慨を吐露している。
 先日の孫介との会話の時にも感じたことだが、この廃藩置県こそは薩長土三藩による権力の独占を完了せしむる措置に他ならない。そう考えた学海先生は、その思いの一端をやはり日記に吐露したのであった。曰く、
「余つらつら時世をみるに、朝廷の政、名実をいたく正させ給ひて形名の説に近く、忠厚惻恤の意あることなし。人を選する法なく、三藩に縁縈して官を得るのみ。少々廉恥あるものは官に就くを恥るときく。余の現今の職にあるも、もともと久しきことあらじ。我より辞し奉るべきにこそ」
 薩長に対する学海先生の反感には、彼らの専権に対する嫉妬よりも、自分の寄るべき基盤が崩されることへの怒りのほうが強く働いていたようである。







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