満蒙開拓団の性接待

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いわゆる満蒙開拓団が敗戦直後に、若い女性たちにソ連兵への「性接待」を強要していたということが明らかになり、ちょっとした反響を呼んでいる。この事実を明らかにしたのは、接待を強要された女性たちだ。彼女らのいた開拓団は、岐阜県旧黒川村から集団で満蒙開拓地に渡った人々だが、戦争に敗けるや現地の人々から「迫害」を受けるようになった。そこで治安の維持をソ連側に依頼したが、その見返りとして若い女性を「接待」要員として差し出したということだ。その女性たちは、戦後ずっと沈黙を続けていたが、年をとったいま、「なかったことにはできない」と言って、重い口を開いたということらしい。

満蒙開拓団は多数存在したが、それらのほとんどは、敗戦後日本政府に見捨てられ、現地にとり残された。彼らの多くには過酷な運命が待ち構えていて、中には葛根廟事件のように、千人以上の人々(ほとんどが女性や子供、老人)がソ連兵によって虐殺されるようなことも起きた。また、ソ連兵による強姦を拒絶して女性が集団自決した開拓団もあった。今回のケースは、現地の人々によって仕返しされることを恐れた開拓団の幹部が、ソ連軍に保護をもとめ、その見返りとして若い女性(17~21歳)たちに、「性接待」を強要したということだ。強要された女性たちは、皆で死のうかとも思ったそうだが、「団を守るのか、自滅するのか」といって、言うことを聞くように迫られたという。

こういう話を聞かされると、敗戦前後の日本人の行動様式に、あらためて暗澹たる気分にさせられる。一番ひどいと思うのは、戦時中、国策として多くの人々を満蒙に送り込んできながら、いざ戦争に敗けると、その人たちをまっ先に切り捨てた日本政府の対応である。もっともひどいのは、その政府の現地の役人たちや関東軍の関係者が、自分たちだけ無事脱出し、日本に戻って来たことだ。これは、日本政府の棄民政策のなかでももっともグロテスクな部分と言える。

そのほかにも、小生などに思い当たる節として、いくつかのことがあげられる。そのひとつは作家の安部公房が満州で見聞したことだ。安部によれば、敗戦後満州の日本人は同僚が現地の人々によって迫害されたときに、一人として助けようとせず、見て見ぬふりを決め込んでいた。朝鮮人なら、助けに入ったところで、それと比べて日本人がいかにエゴイストの集まりか、思い知ったと安倍は言うのである。

また、これは大江健三郎の小説の世界のことだが、「芽むしり、仔撃ち」のなかで、疎開してきた児童たちを村人たちが迫害する話が出て来る。村に疫病が発生したので、児童たちや村の弱者を置き去りにして自分たちだけで逃げるというような話である。それを読むと、日本人というものの集団としての非情さに茫然とさせられる。今回のケースで若い女性が犠牲にされたのも、全く同じような構図だと感じさせられるのである。

今回のケースでは、日本人同士で醜いやりとりがあったわけだが、これをもっと大きな構図の中で見れば、満蒙開拓団がそもそも満蒙への侵略であったということが浮かんでくるし、そういう構図の中で、満蒙の日本人を被迫害者とのみ見るのは片手落ちかもしれない。また、かれらが切羽詰まってソ連軍に保護を求めたということは、自分の国を頼りにできない悲しさを物語っている。当時の状況の中で日本人がソ連軍に保護を求めるのは、シマウマがライオンにすり寄るようなものだ。それほど彼らの置かれた状況がむごかったということだろう。

当該の女性たちは、戦後日本に戻ってからは、開拓団の「仲間」との交際を避けたという。一つには嫌な記憶から逃れたいということもあったのだろうが、彼らが許せないという思いも働いたことと思う。というのも彼女らは自分の身を捧げて他の日本人を守ってやったのに、その日本人から淫売呼ばわりされたというのだから、こんなに理不尽な話はない。

そんなわけで、このケースは、日本人とは何かということについて、大いに考えさせられるところがある。





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