学海先生の明治維新その七十四

| コメント(0)
 修史局における学海先生の仕事ぶりは、所属や担当事項を何度か替えられた後に、南北朝時代の末期から応永年間の初期に渡って歴史の真実を明らかにすることに向けられていた。通説では南朝の元号は元中九年を以て終了し、そのことで南北朝時代が終わりを告げたということになっている。そこを先生は、元中九年以降も南朝の年号は続いていたのではないかと推測した。そのためには南朝の天子の存在が不可欠となるが、先生はその天子を後村上帝の御子泰成親王あるいは懐良親王の御子雅良ではないかとして、その親王を戴いた南朝勢力が少なくとも元中十二年までは存在していたと推測した。元中十二年は北朝の元号で応永二年にあたる。
 南北朝時代は日本の歴史上もっとも名分論が適用されやすかった時代である。徳川時代には南朝を正統として北朝を卑しめる議論は、なかったわけではないがそんなに盛んなわけではなかった。それが王政復古の後には俄かに南朝正統論が有力になった。その背景には国学の興隆があったと思われるのだが、国学者でない学海先生もまた、南朝の側に大いに肩入れして史実を再構成しているところがある。先生が従事した修史局の事業は、こと南北朝時代については南朝正統論を主張する立場に立った。先生はその先頭に立っていたのである。
 そんなわけで学海先生は南北朝時代の史実を確かめようとして方々の古文書を訪ね歩いた。もっとも先生の探索先は東京を出ることは殆どなく、各藩ゆかりの諸文庫とか幕府の資料館などであった。
 ある時先生は浅草文庫に赴いて資料を捜索し、その一部を書生に書き写させていた。その時先生の座っていた机の向かい側から先生に声をかける者がいた。「貴殿は依田君ではござらぬか?」
「それがしはたしかに依田と申すが、かく言う貴殿は?」
「僕をお忘れか? 鈴木舎人です」
 こう言われて学海先生はその人物と十年ほど前に出会ったことを思い出した。たいした付き合いをしたわけではないが、その人物に感服したことを覚えている。神道に造詣が深いという印象を強く受けた。
「これは鈴木殿、貴殿にこんな所でお目にかかるとはめずらしい。久しぶりでござる。して今は何をなさっておられますか?」
「僕いまは名を真年といいます。中興の時、いち早く神祇官を再興せらるべしというので、僕は奏任官を賜ったのですが、幾程もなく解任されました。その後弾正台が置かれた時、故事を知っているというので召し出されましたが、ここもしばらくして廃せられましたので、宮内省に召されて内舎人に任じました」
「ほほう」
「この内舎人という職は、僕が日頃あこがれていたものですので、喜んでお仕えしたのですが、これもさる不都合のために間もなくやめることになりました。先年の皇居の火災の際に、僕は単身煙をおかして三種の神器をお出し申したのです。この事は僕の一生の手柄と思いましたので、そのいきさつを書面にして上司に提出しました。僕としては、この大手柄に対して正当な恩賞を賜るものと考えておったのですが、あにはからんや、逆に不埒な行為だと言いがかりをつけられて官をやめさせられてしまいました。僕一人でしたことで、僕の言い分には確たる証拠もなく、また僕は日頃から同僚にねたまれていたものと見え、思いもよらず虚言を理由に罷免されることになったのです」
「それは思いがけなく残念なことでしたな」
「まったくさようでござる。三種の神器を火から逃れさせ奉ったことは世になき大業でこそあれ、恩賞にあずかれぬばかりか、そのことで罷免されるとは無法の限りというべきです。しかし我が先祖には僕と同じような目にあったものがおります。寿永の乱の際に、我が先祖鈴木三郎重利というものが、熊手で内侍所を海から引き揚げ奉ったにかかわらず恩賞にあずかりませなんだ。これに対して赤松の郎党が長禄の時に神璽を南山から取り返して奉った時には、恩賞として播磨・備前・美作の三国を賜りました。かように不平等な待遇が生じるのも時の運。我が先祖は運に見放されていたのでしょう。その不運を子孫の僕が受け継いだのだと思うと、別に世の中の不条理を嘆くという気持ちにはならないのです」
「それはたいした心掛けです。そうしてこそ矜持を保てるというもの」
「まあ、その後司法省に拾われて仕官することができましたので、僕としてはたいした不満があるわけではありません。いまは司法省で古の刑法に関する資料を色々と集めているところです。今日もそのことでこちらへやってきました」
 こんな具合に鈴木舎人は学海先生から聞かれるともなく自分の過去を滔々と語ったのであった。先生は日頃の人の好さそのままに、鈴木の身の上話に耳を傾けてやったのであった。
 この鈴木は系譜に詳しく、学海先生の知りたかったことも教えてくれた。歴史の事実を発掘する際には、系譜を正しく把握することが重要なのだ。
「徳川は自ら源氏と称しておりますが、実は源氏ではなく加茂氏です。加茂氏は陰陽師の家として三河の国に領地を持っていましたが、そこの目代をしていた一族の者から別れ出た家が松平を名乗り、さらに徳川を名乗ったのです。徳川はもと得川といって足利の一門だったものを、源氏の系譜を買い取って自分のものとしたのです。姓氏は源氏を名乗りましたが、家門は葵のままです。加茂氏の紋は二葉葵でした」
「すると徳川というのは虚構だったわけですか?」
「権力を以て自分の家の系譜を虚構したということです。虚構といえば大内氏も同じです。大内氏は百済の末裔と称していますが、実は任那の末裔です」
「後村上帝の皇子泰成王の子孫は赤松氏と関係があるとされているそうですが、実際はどうだったのですか?」
「赤松氏が泰成王の子孫と婚姻を結んだことはたしかなようです。その子孫が今に残っているそうです」
「泰成王は南朝最後の王統を継いだという意見もありますが、貴殿はどう思いますか?」
「泰成王は南朝が亡びた後でも、南朝の天子を自称した形跡があります。だがそれも長くは続かず、南朝は復興することがありませんでした」
「新田氏の子孫は現存するのでしょうか?」
「陸奥の仙台に中村氏というのがありますが、それが新田氏の子孫です。これは左少将新田義宗朝臣の子孫です。また楠氏の子孫の多くは熊野の神官となって、熊野の神官にはいまでも楠氏を称するものが多いのです。これは十津川記の記事からして明らかです。十津川記は楠雅楽助が紀州の北山合戦で傷を蒙り熊野に隠れたと書いていますが、その子孫が熊野の神官になったわけです」
 学海先生はこの十津川記というものの信憑性に日頃疑問を抱いていた。したがってこれを根拠に史実を語る鈴木舎人の言い分はあまり信用できないと思わざるを得なかった。
 ともあれ学海先生は旧知の鈴木舎人と一時歓談することを得て、多少気分が明るくなるのを感じた。鈴木舎人にはどうやら他人を喜ばす傾向があったようなのである。
 学海先生の旧友で、修史館の先輩である川田甕江も国史の制定に強い意欲をもっていた。そのために甕江は各地を旅して資料を集めた。水戸の弘道館には一月近く滞在して、膨大な資料に目を通した。その甕江が水戸から帰って来て、学海先生と久しぶりに歓談した。
「今回は水戸の弘道館で随分貴重な資料に接することができ申した。その多くを修史館に寄贈させるようにして、今後の修史館の歴史編纂に役立てたいと思うのじゃ」
「弘道館と言えば、慶喜公が水戸に帰った時に謹慎した所ときいておるが」
「もともとは大日本史の編纂を使命とする学問所だったのじゃ」
「そこに何故慶喜公はこもられたのじゃろうか?」
「慶喜公が水戸に戻られたときには、水戸はいくつかの派閥に分裂して血で血を洗う内紛に明け暮れておった。じゃからそれに巻き込まれまいとすれば、水戸の政府から距離を置いて、学問所あたりに謹慎せねばならぬと思われたのじゃろう」
「なるほど。ところで最近木戸孝允公が参議をやめられたそうじゃが、あの方は中興のはじめから功業のあった人で、なぜか何度も要職を辞しておられる。そしてそのたびに要職に復帰されておられるが、今回もまた同じようなことになるのじゃろうか?」
「あの方は病気がちなので、できたら休養したいと思われておるのじゃろう。前回参議に復帰された時は、朝鮮の事が持ち上がって、国事を非常に心配された結果復職されたのじゃと思う。その朝鮮の事態がうまく収まったので、また参議を辞することにされたのじゃろう」
「なるほど、薩摩に西郷ありと言われるように、長州には木戸ありと言われておる。この二人とも中興の業がなったあとは、栄華をむさぼらず、功におごらず、身を全うして退くことを知っておられる。まことに壮士と言うべきですな。それに比べると大久保やその一党のやることは実にせせこましい。権力をかさにきて己の栄華を求めておるありさまじゃ」
「そんなことを公言するものではない。ワシじゃからよいものを、大久保一味の耳に入るとまずいことになるぞよ」
 




コメントする

アーカイブ