2019年3月アーカイブ

190304.JPG

東京では桜が満開になったというので、小生の家の辺りではどうかなと思い、近所の長津川公園に出かけてみた。すると、写真のような光景が目に入って来た。これは、小生の家から来て最初に見える桜なのだが、ご覧のとおり八分咲きである。だが、これだけ咲いているのはここだけで、この反対側の方の、東北にあたる部分では、まだまだ二分咲きといった具合で、公園全体で百本ほどある桜を平均すると五分咲きといったところか。まだ満開にはほど遠い。

shakes03.dream5.JPG

マックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレが共同監督した1935年の映画「真夏の夜の夢」は、シェイクスピア劇の映画化としては理想的な作品といえる。原作の雰囲気を十分に発揮しているし、それに加えてファンタジー劇に相応しいファンタスティックな雰囲気を醸し出している。原作では、ボトムとティターニアのエロティックな出会いが劇の核心をなしていたが、そうしたエロティシズムもそこそこに感じさせる。ただ、原作の妖精パックが成長した男で、したがってエロスの雰囲気を漂わせているのに対し、この映画の中の妖精パックは、声変わりしつつあるとはいえ、まだ稚い少年である。したがってパックにはエロティックな雰囲気はない。そのかわりにいたずらざかりの無鉄砲さを感じさせる。その無鉄砲さで、奇想天外でファンタスティックな話のなりゆきが展開されていくわけである。

sansetu3.1.jpg

天球院下間二の間は朝顔の間とも呼ばれ、朝顔を中心とした草花の図柄を描いた襖絵が十八面ある。「籬に草花図」と題されたこの部分はその一部で、四面からなる。部屋の西側に位置する。

五人の同胞のうちの双子の兄妹の片割れである僕が、村=国家=小宇宙の神話と歴史をもう一人の片割れである妹に向って語ることになったことには、相応の理由がある。僕がその語りかけをする気になった時点では、五人のうちの他の同胞はみな死んでしまい、父=神主に対してはわだかまりがあったという事情もあるが、それ以上に、この双子は特別の絆によって結ばれていたということがあった。この双子に特別の目をかけた父=神主は、男の子であるぼくを村=国家=小宇宙の神話と歴史の語り手として特別にスパルタ教育を施してきたのだし、女の子は村=国家=小宇宙の英雄である壊す人の巫女として育てて来たのだ。それ故この双子は、村=国家=小宇宙のある種の再興を期待された特別の存在だったわけだ。そんな双子の片割れである僕が、もうひとりの片割れである妹に向って、村=国家=小宇宙の神話と歴史を語りたいと思うのには、相応の理由がある。いったい他の誰に向かって語りかけたらよいのか。

1660.jpg

17世紀には、従来のイコンの概念を破って、リアルな画風のイコンが作られた。モスクワのクレムリン内にアトリエをもっていた職業画家たちが、美術品としての絵画を描くかたわら、イコンを制作し、そのイコンをリアルな絵のように表現したのである。かれらは、リアルな絵のほうが本物に近いのであるから、イコンとしての効用も優れていると理屈をつけて、リアルな画風のイコンを制作した。

shakes02.jaja1.JPG

シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」は結構人気があって、いまでも頻繁に舞台に乗せられるほか、何度か映画化されてもいる。なかでもメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが共演した1929年版は、原作のうちの見どころを圧縮して、わかりやすい構成になっている。

雑誌「世界」の最近号(2019年4月号)は、「権威主義という罠」と題する特集を組んでいて、現在世界中に蔓延している権威主義的な政治について多面的な分析を披露している。それを読んで感じたことを、ここにメモとして書いておきたい。

エマニュエル・レヴィナスは、難解と言われる現代フランスの思想家の中でも、とりわけて難解と言ってよい。レヴィナス研究者を自認する内田樹でさえ、レヴィナスの書物は一度や二度読んだだけでは理解できないと言っているくらいだ。実際小生も、「全体性と無限」や「存在の彼方へ」という書物を読むのに、大変な苦労をした。ちゃんと理解できているかどうか、まだわからない始末だ。その理由は色々あるが、小生の能力不足を脇へ置いて言えば、レヴィナスの文章があまり論理的ではないことだ。レヴィナスは自分でも、語りえないことを語るところから自分の思想は始まると言っているくらいだから、やはり自分の主張の非論理性を自覚していたのだと思う。ところが、非論理的な主張ほど、他者にとって理解に苦しむものはないのである。

前稿で、真理は時間のなかで成就するといい、時間は人間の有限性に根差しているといった。その場合、時間とは人間の内部に生起する現象だと捉えられていたわけである。こういう捉え方には異論があろう。時間は、人間とは無関係に、人間が存在する前から存在したし、人間が滅んだあとでも存在するだろう。第一、科学の世界では、人間が存在を始めたのはごく最近のことにすぎない。せいぜい数百万年前に遡るにすぎない。ところが人間が生息する地球という惑星は、40億年も前から存在しており、その地球が属するこの宇宙は、130億年前から存在している。それに比べれば、人間の存在した期間など一瞬に等しい。だから、時間を人間内部の、人間固有の現象だなどというのは、ナンセンスそのものだ。時間は人間とは無関係にある客観的な現象だ、というのが、常識的な見方ではないか。

shakes01.as2.JPG

1936年にローレンス・オリヴィエ主演で作られた「お気に召すまま」は、シェイクスピア劇の原作を忠実に再現している。原作は若い男女の結婚を祝福する祝祭劇の性格を色濃く持っており、その男女の駆け引きが森の自然の中で展開される。しかも愛し合うカップルは一組ではなく、四組もある。その四組のカップルが様々な試練を乗り越えて見事に結ばれ、森の中で祝福されながら祝うという原作の雰囲気がほぼ忠実になぞられている。

トランプのいわゆるロシアゲート疑惑を調査してきたマラー特別検察官が、二年近い調査にくぎりをつけて、司法省のボスであるバーに報告書を提出した。その報告書に基づいてバーが手短なレジュメを用意し、それを議会の司法委員会始め各方面に発表した。その概要を簡単に言えば、有罪とは断定できないが無実とも言えないというものだった。要するに灰色ということだ。

sansetu2.1.jpg

「梅に遊禽図」は、天球院方丈上間二の間を飾る十八面のうちの四面。部屋の東側を飾り、北側の「梅に山鳥図」に連続する位置にある。梅の老木と、それにやすらう小禽たちを描いている。

1620.JPG

「創世記」には、アブラハムとサラの夫婦が三人の謎めいた人物を迎えるという記述になっているが、このイコンはその記述にもつづいている。アブラハムとサラが、三人の天使を食卓に座らせ、食事を供している様子を描いたものだ。

トーマス・マンのチェーホフ論は、チェーホフへの敬愛に満ちている。マンは、チェーホフの作品への深い共感だけではなく、チェーホフの人柄への強い敬愛の念をも抱いていたことが、そのチェーホフ論からは伝わって来るのである。

最近、リベラルな編集方針で知られていた Japan Times に異変が起きたようだ。これまで「forced laborers」と表記してきた徴用工を「wartime laborers」と変更し、従軍慰安婦を「women who worked in wartime brothels, including those who did so against their will, to provide sex to Japanese soldiers」に変更したことに、異変の兆候が窺われる。

yimou21.JPG

「金陵十三釵」は、日本では最悪の反日映画と受け取られたので、上映されることはなかったし、日本人向けのDVDが販売されることもなかった。そんなわけで小生は、英語圏向けのDVDを取り寄せて見た次第だ。たしかにこの映画の中の日本人はグロテスクなほどに、非人間的に描かれている。この映画は中国では空前のヒットを記録し、日本を除いた外国にも相当多数輸出されたようだから、中国はもとより世界じゅうに日本についてのマイナスイメージをばらまいたことになる。

sansetu1.1.jpg

狩野山雪は狩野山楽に弟子入りし、後にその娘婿となった。山楽の画風を継承しつつ、一層装飾的な華やかさを追求した。学問にも明るく、儒教的教養に富んでいたといわれ、その絵には観念的な傾向もみられる。

小説の語り手であり、村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く者たる僕には、双子の妹の外三人の兄弟があった。これら五人の同胞たちは、父=神主が旅芸人の女に産ませたのだった。その女は興業が終わったあと、いったん村の外へ去ったのだったが、やがて戻って来て、谷間の家に住みついた。その家へ、丘の上の神社から父=神主が通ってきて、奇怪な叫び声を上げながらその家に入り、次々と子を孕ませたのだった。その母親は、僕が三歳の時に夫=神主から追放されて村外に去り、失意のうちに、五人の子どもたちを気づかいながら死んだということになっている。語り手である僕は、母親と別れたときに幼かったこともあり、あまり感情移入してはいないようである。ただ、僕を含めた五人の同胞たちが、内側から盛り上がって来るような目をしているのは、母親からの賜物だというのみである。

イチローが28年間の現役生活にくぎりをつけて、引退の意思を表明した。とりあえず、ごくろうさんと言いたい。偉大な功績を残したことに対しての言葉としては月並みだが。これ以上に相応しい言葉があるとも思えない。とにかく、ご苦労様でした。一ファンとして心からそう思います。

1610.1.JPG

これもルブリョフの聖三位一体を模倣したイコン。三人の天使のポーズはルブリョフのそれとほぼ同じだが、背景がかなり異なっているように見えるのは、右手上方にごちゃごちゃと加えられたイメージのせいだろう。その左手に見える修道院の建物は、ルブリョフの図を踏襲している。

yimou13.sanzasi1.JPG

張芸謀の2010年の映画「サンザシの樹の下で(山楂樹之恋)」は、若い男女の純愛物語である。いまどき世界のどこかで、こんな純愛がありうるのかと、頭をかしげたくなるような映画である。なぜ、こんな純愛がなりたちうるのか。人の恋愛感情は、理不尽な制約があるときにもっとも盛り上がりやすいらしいが、現代の中国社会には、そうした恋愛への制約がまだ強くあるのらしい。その制約が、若い男女をやみくもな恋愛に走らせる、というふうにこの映画からは伝わってくるのである。

折口信夫は国学院の教授として、国学院の学生を前に講義を行ったなかで、しばしば国学の伝統について語った。その国学の伝統とは、単に学問としての伝統ではなく、道徳としての国学の伝統ということだった。そのことを折口は、次のように語っている。「道徳に到達しないで国学というものはないのです。だから文献学がいくら文献学でも、それは国学ではありません」(平田国学の伝統)

真理とは存在が隠れなく現われること、即ち存在の顕現だとハイデガーはいったが、そうだとすれば、では誰に対して顕現するのかという問いが出されるのではないか。というのもハイデガーは、存在が隠れなくあらわれることについて、その証人のようなものを要請しておらず、存在はそれ自体で自らを隠れなく顕現するものであり、その顕現が真理なのだと言っているからである。然し仮に存在が自らを隠れなく現わすとして、それを受け止めるもの、つまり目撃する者がいなければ、真理にいかほどの意味があるだろうか。真理が意味を持つのは、それが人間にとっての真理であるからなので、人間を度外視した所では、何らの意味も持たない。そういうわけだから、ハイデガーの存在論は、こと真理に関わる限りにおいては、認識論と無関係ではありえない。

yimou12.hero1.JPG

張芸謀の2002年の映画「HERO」は、中国版ちゃんばら時代劇といった作品である。日本のちゃんばら時代劇は、正義の味方が悪人どもを成敗する勧善懲悪の仕立てになっているが、中国のちゃんばら時代劇であるこの作品は、必ずしも勧善懲悪とは言えない。この映画のテーマは、秦の始皇帝を付け狙う刺客たちの物語なのだが、ほかならぬその刺客たちが、いわば内輪もめのような形で、互いに戦うのだ。しかもその戦いには隠された意図がある、というようなちょっとひねった筋書きになっている。日本のチャンバラ映画の無邪気さに比べれば、かなりひねくれた作り方といえる。

190302.jpg

上の写真は、小生の家の近くにある公園で毎日見かける花だ。灌木に咲くこの花は、一月の冬の盛りから見かけているから、かれこれ二か月も咲いている。この花の名をいつか、植物に詳しい人から教えてもらったが、行きがかりの人から教えてもらったその名前を、小生はうかつにも忘れてしまった。植物図鑑にあたっても見つけることができない。毎日のように見る花なので、できれば思い出したい。どなたか知っている方がいれば、教えてくださるとありがたい。

sanraku2.1.jpeg

これも、大覚寺宸殿を飾る襖絵で、八面からなる。上の写真は、その右半分にあたる。梅の大木から、枝が縦横に延び、鮮やかな紅梅の花を咲かせている。梅の上部が途切れているのは、霞がかかっているためである。

1600.JPG

アンドレイ・ルブリョフの聖三位一体のイコンは大きな影響力を及ぼし、15世紀から16世紀にかけて夥しい模倣品が作られた。それにはロシア正教の百章会議が、模倣すべき手本として信徒たちに示したという動きがあった。この聖三位一体のイコンも、そうした模倣品の一つである。

「いいなずけ」は、チェーホフ最後の短編小説だが、「たいくつな話」と並んで、トーマス・マンが最も高く評価した作品だ。トーマス・マンのチェーホフ論の要点は、同時代のロシアに関するかれの鋭い批判意識と未来への希望にあったが、「たいくつな話」は同時代への批判意識をもっとも鋭い形で表明したものだとすれば、「いいなずけ」は未来への希望を美しい形で表明したものといえよう。

yimou11.hatu3.JPG

張芸謀の1999年の映画「初恋のきた道(我的父親母親)」は、「あの子を探して」と同年に作られた作品だが、内容がよく似ている。どちらも中国人女性のひたむきさを描いたものだ。「あの子」の場合には、自分の請け負った仕事(子供の教育)に対する若い女性のひたむきさがテーマだったが、こちらのひたむきさは恋一筋のひたむきさである。若い女性からこんなにひたむきに愛されたら、男冥利につきるというものだ。

sanraku1.1.jpeg

狩野山楽は、浅井長政の家臣木村永光の子光頼といったが、浅井家滅亡後父が秀吉に仕えていた時に、秀吉に画才を認められて、狩野永徳に弟子入りしたという、かわった経歴の持ち主である。秀吉との関係が密接だったことから、徳川家から疑われたこともあるが、なんとかそれを振り切って、徳川家の保護も受けるようになった。

小説の語り手が、双子の妹に向けた手紙の中で書いたのは、かれが「われわれの土地」と呼ぶ「村=国家=小宇宙」の神話と歴史だったわけだが、何故かれがそれを「神話と歴史」というふうに、二つの言葉を並べて表現したのか。かれとしては、自分が語る物語には、「われわれの土地」の歴史というには収まらないような、神話的な要素が色濃く含まれていると感じたからなのだろう。その神話的な部分には、人間の常識を以ては理解できないようなものがあり、それゆえ神話という言葉を語り手は用いざるを得なかったのだと思う。その神話の部分では、不死身の存在である壊す人と、百年以上生き延びて巨人となった開拓者たちの活躍があった。

1550.jpg

聖母のイコンは各地でさまざまな奇跡を起こしたと信じられていたが、そうした奇跡の有様を、聖母のイコンと並べて展示し、崇拝する信仰のありかたが16世紀以降盛んになった。これは、ウラジーミルのイコンを中心にして、そのイコンが起こした奇跡をそれぞれ描いたイコンを並べたもの。

waka12.kaien1.JPG

若松孝二の2012年の映画「海燕ホテル・ブルー」は、今様版怪談とでもいうべき作品だ。怪しげな雰囲気を持った女に、男が次々と滅ぼされていくという筋立ては、伝統的な怪談物語とは多少趣を異にするが、人をして背筋を寒からしめるところは怪談といってよい。若松はこの映画を、「キャタピラー」とか「千年の愉楽」といったシリアスな作品の合間に作ったわけだが、どういうつもりでこんなものを作ったか、他人にはいまひとつわからない。

瀬戸内寂聴尼は今年九十六になり、あと二か月もすると九十七になるのだそうだ。そこで自分がその年まで生きてきたことをうれしいかというと、そうでもないらしい。特に年をとってからは、生きていることが必ずしもうれしくはないらしい。そのように思うのは、自分の命がこの世のために役に立たなくなったと感じる時だそうだ。そういう時には、「まだ、だらだらと生き続けて役にも立たなくなった自分の命を持て余しているような気もする」のだそうだ。

晩年の折口信夫が、神道を宗教として純化し、日本人にとっての国民宗教になることを強く願ったことはよく知られている。そのきっかけは敗戦であった。折口は、アメリカの若者たちが第二次世界大戦を、十字軍の兵士たちがエルサレムを奪還しようとしたのと同じ情熱をもって戦っているということを悟って、そんな敵を相手に日本が勝てるわけはないと思った。何故なら日本の若者には、そういう宗教的な情熱はないからだ。だから、日本が負けるのは無理もない。日本が勝つためには、アメリカの若者に劣らぬような宗教的情熱を、日本の若者も持たなければならない。その場合に、日本の若者が持つべき宗教的な情熱は、神道しかそれを与える可能性はない。そういうような思いから折口は、神道の宗教化を強く主張したのである。

弁証法は古い起源をもつ哲学タームだが、本格的に用いられるのはヘーゲル以降であり、それをマルクスが引き継いで、マルクス主義が流行した日本では、専ら論争的な色彩を帯びるようになった。日本のマルクス主義が非常に論争的だったせいである。だが、大流行した割には、その内実はいまひとつ明確ではなかったようだ。弁証法とは何かと聞かれて、まともに説明できるものはいなかったといってよい。弁証法とは、定立、反定立を経て総合にいたるとか、ヘーゲルのタームを使って、アンジッヒ、フュールジッヒ、アン・ウント・フュールジッヒのプロセスを経て、ものごとをトータルに把握することだなどと説明する人が多いが、それによって何がどこまで説明できたか、大いに疑問が残る場合がほとんどだ。

waka11.misima4.JPG

若松孝二は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を、自分の映画作りの総決算だという趣旨のことをいったそうだが、それから四年後に「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を作った。前作が日本の左翼をとりあげて、その異様な思想と行動を描いたものとすれば、後作は、左翼の対局としての右翼の異様な思想と行動を描いたものだ。若松は左翼だけでは片手落ちで、それとバランスをとるつもりで、この作品を作ったのだろう。

ジャーナリストの田原総一郎が、体験的戦後メディア史と題して、戦後政治家とのインタビューのやりとりを、雑誌「世界」に寄稿している。田原は、歴代の総理大臣にインタビューをしたが、ほとんどの総理大臣経験者が、戦争をするのはよくないと言っていたそうだ。田中角栄がそうだったし、宮澤喜一や竹下登もそうだった。また中曽根康弘や佐藤栄作も、戦争をできるように憲法を改正しようとはしなかった。

8tanyu2.1.jpg

探幽は若い頃は采女を名乗り、三十台半ばに剃髪して探幽斎と号した。そしてその三年後には法眼に叙せられ、幕府御用画家としての名声を極めた。探幽は長命で、夥しい数の作品を制作した。その画題は多岐にわたり、金地の豪華絢爛な画風から、水墨画にわかるまで、技法的にも多彩であった。

1500.jpg

「カザンの聖母」は非常に有名なイコンで、ロシア史の様々な舞台の立役者となったとされる。すなわち、1612年の対ポーランド戦争、1709年の対スウェーデン戦争、1812年の対ナポレオン戦争で、それぞれ奇跡を起こし、ロシアを勝利に導いたとされる。

チェーホフの短編小説「たいくつな話」を、ドイツの文豪トーマス・マンは、「まったく異常な、そして魅惑的な作品であり、その特徴をなすしずかな、もの悲しい調子は、あらゆる文学にほとんど比類を見ないものだ」(木村彰一訳{チェーホフ論})と絶賛し、自分の最も愛する作品であるといっている。

公立福生病院で、人工透析患者に対して、医師が人口透析にかかる医療方針の相談のなかで、透析中止の選択肢を示し、それに応じた患者が一週間後に死亡したということが明らかになった。この患者は、透析中止についての合意を文書の形に示しており、一応患者の意思を尊重してのことだったと病院側では主張しているが、その患者は、死ぬ直前に透析をまた受けたいとも言っていたらしく、果たして病院側の対応に問題がなかったのかどうか、疑問を呼んでいる。その疑問に応える形で、東京都が調査に入ったほか、透析学会も立ち入り調査をする意思を表明している。

tsuru03.gosai1.JPG

鶴橋康夫の2016年の映画「後妻業の女」は、金を持っている老人の後妻に納まって、老人が死んだ後その財産を独り占めにしようと企む女を描いている。後妻業という言葉があるのかどうかわからぬが、こういう人間が映画の主人公に選ばれるということは、いわゆる高齢化社会の姿を反映していると言えよう。後妻に納まった相手を次々に殺して遺産をせしめた女の事件もあったから、そのほうも日本の高齢化の一断面だったといえなくもない。

8tanyu1.jpg

狩野探幽は、光信の弟孝信の長男である。光信の嫡子貞信が死ぬと、その後継に自分の末弟安信を当て、自分自身は江戸に赴いて鍛冶橋狩野の基礎を築いた。以後狩野家は、京都と江戸に分流するようになり、江戸の狩野は探幽を中心にしてあらたな発展を見せるようになる。

「個人的な体験」から「ピンチランナー調書」に至る一連の作品をつうじて、大江健三郎は自分自身の個人的な体験に拘り続けて来た。そのこだわりを一応棚上げして、全く新しい創造に取り掛かったのが「同時代ゲーム」である。この小説は、それまでの大江の殻を突き破って、新鮮さと奇抜さに満ち満ちた、読者をわくわくさせるような、壮大な物語になっている。そうした壮大さは、大江以前の日本の文学にはなかったものだ。大江はこの小説によって、前代未聞の稀有の物語作者として、日本の文学空間を震撼させたといえる。

1495.JPG

これもラドネジの聖セルギーを描いたイコン。17世紀の中頃に作られたもの。前に紹介した聖セルギーのイコンとほぼ同じような構図であり、中央に聖セルギーを配し、その周囲に彼の生涯の出来事を描いている。

tsuru02.genji2.JPG

鶴橋康夫の2011年の映画「源氏物語 千年の謎」は、副題に「千年の謎」とあるが、何が謎なのか映画の画面からは伝わってこない。一体この作品は、「源氏物語」をテーマにしていながら、源氏の恋の遍歴を描くよりも、作者の紫式部のほうに焦点を当てているのではないか。紫式部の生きざまを描きながら、そこに彼女の物語である「源氏物語」のシーンを同時並行的に差し挟む。だからこれは「紫式部物語 千年の謎」と題したほうがよかったようだ。それなら、謎の意味も分かる。紫式部の生涯はそんなに詳しく明らかになっているわけではなく、ましてやこの映画が前提しているような道真と式部との男女関係があったということもたしかではない。その確かでないことをこの映画は、謎というかたちで取り上げた、ということならなんとか納得できる。

日産元会長カルロス・ゴーンが、逮捕されて以来108日ぶりに保釈された。これは日本の刑事司法の歴史上きわめて異例のことだ。日本の刑事司法では、逮捕された場合には、自分の犯罪を自白しない限り、保釈してもらえないと言う「伝統」があった。それが国の内外で「人質司法」と批判されてきたわけだが、その強固な伝統が崩されたわけだ。これをどう受け取るかは、人それぞれだろうが、筆者は日本の刑事司法のあり方にとって、非常にいいことだと思っている。

日本人の他界観についての折口の考え方は、日本人の死生観と深くかかわりながら展開されている。折口は、人間が他界の観念を持つようになった理由は、人間が死ぬるものだからだと言っている。人間が死ぬるものなら、死後それがどのようになるのか、という疑問が生まれて来る。他界とは、その疑問に答えるものなのである。

四方山話の会今年二回目の例会は、いつものとおり新橋の古今亭で催された。やや早めについて見ると、浦子がひとりポツネンと座席に腰かけ、新聞に眼を通している。用意されている席は五人分だ。今晩は少ないなといいながら席に着くと、やがて六谷子がやってきた。彼、先日大磯の吉田茂邸を見物してきたそうだ。なにか面白いことはあったかねときくと、近くに島崎藤村の墓があったという。島崎藤村は晩年を大磯で過ごしたのだそうだ。細君の墓と仲良く並んでいて、細長い石柱がたっているが、とくに戒名などは書いていないのだそうだ。

根源的な知について論じた前稿のなかで、正義と根源的な知についての関係について示唆しておいた。正義は人間性が実現された状態だというのがこれまでの小生の考えで、その人間性についての洞察が根源的な知の内実をなしていることからすれば、正義と根源的な知が深いかかわりをもつのは必然だといえる。そこでこの二つがどのようにかかわりあっているのか、そこを掘り下げて考えることで、我々は人間性についての理解を深めることができるのではないか。

tsuru01.rukei1.JPG

鶴橋康夫の2007年の映画「愛の流刑地」は、渡辺淳一の同名の小説を映画化したものだ。渡辺は人気のポルノ作家だが、ただのポルノではなく、物語性を豊富に盛り込んだロマンチックなポルノで好評を博した。そのロマンチック性は時に逸脱することもあるが、この作品などはそのいい例だろう。これは、愛の絶頂を死で迎えようとする一対の男女の物語なのである。愛の流刑地とはだから、愛が連れて行く領域ということになろう。

7mitunobu1.1.jpg

狩野光信は永徳の長男として狩野派の本流を継いだ。画風としては、父永徳の豪壮さに対して、繊細さが売り物である。肖像画も手掛けており、教科書に出て来る有名な秀吉像は、光信の作品である。

1490.1.JPG

ラドネジの聖セルギーは14世紀に実在した修道僧で、ロシア正教においては、もっとも重要な聖人として崇敬を集めている。ロシア正教では、多くの聖人がイコンに描かれてきたが、そのなかで聖セルギーは最も多く登場する。いわばロシア正教を代表する聖人と言ってよい。

戯曲「桜の園」は、チェーホフの遺作となったものである。遺作といっても、チェーホフは44歳の若さで死んでいるから、本人にとっては、生涯の総決算という意識はなかったかもしれない。だが、それまでの自分の文業にある程度の区切りをつけるくらいの気持は働いていただろう。それは、彼がこの作品において、それまで彼がこだわり続けてきたこと、つまり没落しつつある地主階級のメンタリティを描き出そうとしているところから推測される。

190301.jpg

トランプと金正恩とのハノイでの会談には世界中が注目していたところだ。なにしろ金正恩は、三日間にわたる鉄道の旅を経てわざわざハノイ迄やってきたのだし、トランプも金正恩との間でディールを成立させることに熱心だった。ところが蓋を開けてみると、会談はあっさりと破綻し、物別れに終わった。共同会見もしないまま、金正恩とトランプは自分の国に向けて帰って行った。

miwa04.nagai2.JPG

タイトルにある「永い言い訳」とは、他人に向かっての言い訳と言うより、自分自身への言い訳のように、この映画からは伝わってくる。何についての言い訳か。自分が生きていることの、自分自身への言い訳である。何故、そんな言い訳をしなければならなくなったのか。自分自身、自分が生きていることの意味を見失ったからだ。

6naganobu1.1.jpg

狩野長信は、狩野松英の四男で、永徳の弟にあたる。松栄が年を取ってから作った子であったので、永徳の長男で甥にあたる光信より年少だった。狩野派としては、最初に徳川幕府に仕え、後には家の長老として、狩野派の興隆に一定の役割を果たしたとされる。

「ピンチランナー調書」には三人の女性が出て来る。森・父の妻であり森の母である女性と、森・父の女友達桜生野桜子、そして森の女友達作用子だ。このほか小説の語り手でありかつ幻の書き手でもある僕の妻もいるが、これはたいした動きを見せないので、とりあえず除外してよいだろう。ほかの三人の女性を通じて大江は、なにを表現しようとしたか。それがここでのテーマだ。

いわゆる統計不正問題をめぐって、ひと騒ぎになっている。国会でも取り上げられ、質疑がなされているが、テレビでそのありさまを見ていると、あきれて苦笑する気にもなれない。政府の役人が、野党議員の質問に答えて、珍妙な答弁をしているからだが、その答弁というのが、隠蔽という言葉をめぐって、その常識上の意味とは別に、自分たちが定義した意味もあると、公然と言い放ったものだったのである。

1410.1.JPG

アンドレイ・ルブリョフの「聖三位一体」は、ロシアのイコン史上で決定的な役割を果たした。このイコンが現れて以降、類似した図柄のイコンが、ほとんど無数に作られたのである。

最近のコメント

  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む
  • ぜんまい: 邦題はソポクレスの原 続きを読む
  • ひとりごと: 「成長の家」ではなく 続きを読む
  • elnest: 突然ですが。 この小 続きを読む

アーカイブ