いいなずけ:チェーホフを読む

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「いいなずけ」は、チェーホフ最後の短編小説だが、「たいくつな話」と並んで、トーマス・マンが最も高く評価した作品だ。トーマス・マンのチェーホフ論の要点は、同時代のロシアに関するかれの鋭い批判意識と未来への希望にあったが、「たいくつな話」は同時代への批判意識をもっとも鋭い形で表明したものだとすれば、「いいなずけ」は未来への希望を美しい形で表明したものといえよう。

未来への希望とはいっても、ロシアの未来に本当の意味での希望がもてるかどうか、それはまた別の問題である。ロシアの現実、それは胸いっぱいに呼吸することなど思いもよらぬほど惨めに淀んだものなのだが、そういう現実を前にしたら、ロシアにまともな未来があるとは限らない。むしろ今までどおりか、それよりもっとひどい未来が待ち受けている可能性のほうが大きい。それでもチェーホフは明るい未来について語らずにはいられなかったし、自分の口から直接語らないまでも、作中人物の口を通じて語った。

未来への希望は、現状への厳しい批判から生まれる。その批判は現状からの逃走という形であらわれる。チェーホフの作品には、この逃走というテーマが繰り返し現れるのだ。それは「いいなずけ」においても同様である。この小説のテーマは、自由な生き方を希求するヒロインが、自分の置かれた境遇から逃走して、希望を未来につなげようと努力する姿なのである。

ヒロインのナージャはロシアの片田舎に暮らしている。彼女の母親は未亡人で、亡くなった夫の母親を頼りに生きている。夫の母親はナージャにとっては祖母にあたるわけだが、ナージャは祖母に愛情を感じていないらしい。それは、祖母がロシアの古い悪徳を体現しているからだろう。その祖母からナージャはいいなずけを与えられる。ナージャはいいなずけを愛しているわけではないが、祖母の言うとおりにするのが、自分にとってよいことなのだと、自分自身に言い聞かせている。そんな彼女に向って、意に染まぬ結婚を拒絶して、自分らしい生き方を求めよと忠告する人物がいる。サーシャといって、長い間この屋敷に居候をしてきた男だ。

サーシャは重い結核を患っていて、死期が近づいている。そんなわけからか、ナージャに向って自分を大事にしなさいと忠告する。かれはこういってナージャを説得するのだ。「いいですか、たとえばあなたのお母さんやおばあさんが、なんにもしていないとすれば、それはつまりだれかほかの人があなたがたのかわりに働いている、ということになるじゃありませんか。つまり、あなたがたは誰かほかの人の生活を蚕食しているのです。これでも純潔な、汚れのない生活といえるでしょうか?・・・ねえ、ナージャ、出かけておしまいなさいよ! そしてあなたがこのよどんだような、灰色の、罪深い生活にあきあきしてしまったんだということを、みんなに見せておやんなさい!・・・僕は誓っていいですが、あなたが後悔することは断じてないはずです。向こうへいったら勉強して、あとは運命の導きに任せればいいのです。あなたの生活の方向をかえれば、なにもかもかわってしまいますよ。大事なのは生活の方向をかえることで、そのほかのことはどうだっていいんです」(木村彰一訳)

サーシャのこの忠告を受けて、ナージャは逃走する。そしてペテルブルグで勉強し、自分の未来の生き方についていろいろと考えるのだ。一年後、祖母たちのもとに戻ったナージャはそこでサーシャと再会するが、サーシャは病気療養のためだといって、すぐに出かけてしまう。そして何日か後に、サーシャの死の知らせがもたらさせる。そこでナージャは、今度こそこの家を出て、自分の力で生きて行こうと決心する。

「『さようなら、なつかしいサーシャ!』と彼女は心のなかで思った。すると彼女の目の前に、新しい、限りもなく広々とした生活が浮かんできた。まだ茫漠として、神秘に満ちたその生活は、彼女を魅惑し、彼女を差し招いていた。彼女は二階の自分の部屋に行って、荷物をまとめた。そして次の朝、みんなに別れを告げ、溌溂とした気分で、この街を去った~もう二度と帰ってはこないつもりだった」

ナージャのこの決意の気分は、自分の内面から湧きあがってきたように書かれている。チョーホフの小説に出て来る女性たちの殆どが、他人、とくに男性に寄り掛かって、自分自身の生き方を持たない女性として描かれてきたのだったが、そうした女性たちと比べて、ナージャはきわめて自主性の高い女性として描かれている。これはチェーホフとしては珍しいタイプの女性である。チェーホフがなぜこんな女性像を、自己にとって最後の作品のなかで展開してみせたか。興味深いところだ。

おそらくチョーホフは、ナージャという女性に、自分の分身を認めたのだろうと思われる。その分身であるナージャを通して、未来への希望を語ったというのが、この小説のチェーホフ自身にとっての意義だったのではないか。その希望が現実性によって裏打ちされていないにしても、希望を語ることは、沈黙しているよりはましだ。そうチェーホフは思ったのではないか。







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