ライク・サムワン・イン・ラヴ:アッバス・キアロスタミ

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2012年の映画「ライク・サムワン・イン・ラヴ」は、イラン人のアッバス・キアロスタミが日本にやってきて、日本の金で、日本人スタッフと協力して、日本人俳優を使って、無論日本語で、日本人向けに作った映画である。だからイラン映画とは言わずに、日本映画といってよいはずなのだが、どうもそういうのがはばかられる作品だ。というのも、この映画は、普通の日本映画とは違って、日本らしさを感じさせないからだ。では何らしさを感じさせるかというと、そのらしさがなかなか思い当たらない。不思議な感じの映画である。

映画が描くのは、現代日本の普通の人間の生活の一コマだ。テーマは、八十過ぎの老人が二十歳前後の若い女を金で買うこと、つまり売買春である。この映画の中では、この若い女性は、客の家に出張して売春をすることになっている。こういうのをデートクラブというのだそうだが、欧米ではコールガールと言う奴だろう。コールガールは普通、ホテルで客を取るが、日本では相手の家に出張するということになっている。こういうコールガールが、今の日本でほんとにいるのかどうか、筆者は良くは知らないが、映画は、それが日本のありふれた光景だというふうに割り切って描いている。

しかし、アッバス・キアロスタミという国際的に注目されている映画作家が、わざわざ日本までやって来て、主に日本人向けに作った映画を、このような売買春に設定したのはどういうわけか。キアロスタミは、日本人というのは背徳的な人種で、男は年をとっても好色で、女は金のためには平気で体を売るような、不道徳な人間の集まりだと思っているのだろうか。キアロスタミは、この映画に先駆けて、「トスカーナの贋作」を作った時、欲求不満の中年女が性欲にもだえるところを描いたわけだが、それはイラン人にもあるにちがいない性的な欲望を、ヨーロッパ人に投影して描いたといふうに感じさせた。それと同じように、この映画も、イラン人にもある背徳性を、日本人に投影して描いたと言うことか。日本人なら、イラン人には馴染みの薄い人種で、多少誇張して描いても不自然にはならないだろうし、それ以上に日本人はエコノミック・アニマルとして通っているので、金のためなら何でもありという国民性が実際に横行していると、当の日本はじめ世界の人々に賛同してもらえると思ったのだろうか。

この映画に出て来る日本人は、みなエクセントリックな連中ばかりである。その異様さは拝金主義のあらわれだというふうに伝わって来る。この映画の中で唯一まともなのは、コールガールの恋人志願の若い男なのだが、その男は自分の恋している女がコールガールで、さる老人に金で買われたと知って、感情を爆発させるのである。というのも、彼はその老人を彼女の祖父だと思い込んでいて、老人や彼女のほうでもその思い込みを訂正しないからだった。だから、彼の怒りは嫉妬からではない。騙されたことに怒る、純粋な自尊心からなのだ。そういう自尊心は、コールガールや老人にはない。この老人は八十半ばということになっていて、それでも性的好奇心は旺盛だという設定だが、だいたいその年齢になれば、どんな人種の男だって、性的には淡白になろうというものだ。例外は、おそらくトランプくらいのものだろう。トランプは、七十を過ぎても女の股座をまさぐるというから、おそらく八十を過ぎても性的に活発であり続けるに違いない。この映画に出て来る八十過ぎの老人は、そのトランプも顔負けするほど好色な爺さんなのだ。

この映画を見て、感心した日本人がどれほどいたかわからないが、もしそういう日本人、とくに高齢の日本人がいたとしたら、それは自分もこの映画の中の老人にあやかりたいと思ったからだろう。

なお、アッバス・キアロスタミといえば、映画の主人公に自動車を運転させることが好きだという特徴があるが、この映画の場合も、主人公の日本人の老人は常にボルボを運転している。






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