監視国家日本の可能性

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先日のこのブログで、中国における信用スコアの動きを紹介した際に、今は民間のサービスにとどまっているが、将来はそれが政府によって運営される可能性がないわけではなく、そうなった場合には、ディストピアとしての監視国家が生まれる可能性もあると書いた。その時点では、そうなるにしてもかなり先の話だと思っていたのだが、実際はすぐ手前まで来ているということらしい。その動きを、雑誌世界最新号(2019年6月号)の記事「"C"の誘惑」が分析している。

それによれば"C"とは、次のような国家をさす。政府によって国民のほとんどすべての個人情報が一元的に管理され、国民は政府の強いコントロール下に置かれる。それにはプライバシーの侵害とか内心の自由の空洞化といったマイナスの面もあるが、反面、政府が国民の支持を取り付けるために恩恵的に振る舞うようになる結果、国民は手厚い政府の保護を受けることもできるといったプラスの面もある。要するに国民は、多少のプライバシーの自由とか内心の自由にこだわらなければ、けっこう快適に生活することができる。そのような国家のことをさして"C"というわけだが、そうした国家に限りなく近づいているのが中国だというのである。

先日のブログ記事では、いまのところアリババのような民家企業が、信用スコアサービスを行っている段階だと言ったが、この記事によれば、中国政府はすでに信用スコアシステムの構築に乗り出しているということだ。昨年の一月には、中央銀行の個人信用情報データベースのほかに、アリババのゴマ信用システムを含む民間八社と政府系業界団体の共同出資により、「新聯」なる個人信用情報機関が設立された。この機関の活動が本格化すれば、遠からず中国国民は、個人情報を丸裸の状態にされることになるという。そうなれば、上に述べたような"C"国家の状態、すなわち究極のディストピアが実現してしまう。ある意味恐ろしいことである。

ところで小生は、そうした動きに対して日本の懸命な市民は、容易にそれを許さないだろうという楽観的な見通しを述べたところだが、実際には、そう単純なものではないらしい。信用情報の管理システムは、当初はスコア利用社会をもたらすのだが、それが政府によって一元的に管理されることで、スコア監視社会となり、究極的には、国民一人ひとりを国家が直接管理するスコア監視国家になっていく可能性を秘めているのだが、日本はそのスコア監視国家になりやすい条件を持っていると、この記事は言うのだ。

その理由としてあげられているのは、いくつかあるが、日本型福祉国家の維持とこのシステムが馴染みやすいこと、日本では国民が政府の行動に協力的であり、官民での情報共有が容易であること、日本では政治権力と道徳規範が不分離で、政府による国民教導が容易に行われやすいことなどが、このシステムを実現させる方向に強く働くと予想している。そんなわけで、我々日本人も、日本をスコア監視国家にしていくべきなのか、もしそうでないとしたらどう対応すべきなのか、よくよく考えなければならないだろうと思う。この記事は、最後の砦として「内心の自由」だけは守りたいと言っているが、果たしてそれでよいのか。





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