存在の彼方へ:レヴィナスの後期思想

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レヴィナスの第二の主著といわれる「存在の彼方へ」は、原題を「Autrement qu' être ou au-delà de l'essence (存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ)」といい、存在するとは別の仕方で生きることの意義について論じている。しかし、存在するとは別の仕方で生きる、とはどういうことか。人が生きているとは存在していることと同義ではないのか。生きていながら、存在するとは別の仕方をとるということがありえるのか。この問いは、存在するとは別の仕方でを、存在しないこと、つまり非存在と同義とする偏見から発している。レヴィナスによれば、存在するとは別の仕方でとは、かならずしも存在しないことを意味しないようなのだ。

レヴィナスが「存在するとは別の仕方で」という言葉で何を意味しているかを知るためには、レヴィナスが「存在」という言葉にどういう意味を込めているかについて理解しなければならない。

レヴィナスは、存在を存在者から厳しく区別する。その点ではハイデガーと同じである。存在者を存在者として存在させているその存在性をさして、レヴィナスは存在というわけである。個別の存在者ではなく、その存在者の存在を問題とするとき、その存在は理念的なものとして捉えられている。レヴィナスは、この存在をプラトンのイデアのようなものとして考えているのである。したがって存在の理念は、人間の意識の相関者であるということになる。人間の意識は時間の中で展開されるが、その時間の広がりのなかで、存在はその全容を次第にあらわにする。真理は存在の顕現であるとはハイデガーの主張だが、レヴィナスもそれを引き継いで、存在が時間のなかで成就することが真理であると考えているのである。したがってその真理は理念的なものである。

レヴィナスは言う、「時間化することで、存在することは意味を獲得する。存在することのこのような時間化においては、イメージはすでにして理念であり、他のイメージの象徴である」。また、こうも言う、「ある存在を意識するとき、私たちはつねに、一個の理念性を媒介とし、<語られたこと>を起点として、この存在を把握していることになろう。個的な経験的存在への接近でさえ、ロゴスの理念性を介してなされるのだ」

要するに、我々人間は、個別的な存在者を普遍的な理念の発現としてとらえるように出来ているのだが、その場合、普遍的な理念は、意識の中では、自同的なものとして現われ、それに対して個別的な存在者の現われすなわち現象は、自同的なものが様々に異なった姿であらわれる差異として捉えられる。この差異を自同性へと集約するのが意識の働きなのである。その集約は時間のなかで行われる。ここから意識は時間だというレヴィナスの主張が出てくる。

以上は、対象としての存在者の存在にかかわる議論だが、その対象には私自身も含まれる。この対象としての私自身は、ヘーゲルにしたがって対自と呼ばれる。この対自としての自己においても、対象における自同性と差異との関係が成り立つ。私は、意識のなかにおいては、そのときどきに様々なことを表象したり統合したりしているが、そうした意識の働きを通じて自同的なものが認められる。それをデカルトは「我思う」の実体だと言ったわけだが、そしてそこから実体としての自我の強調へと移っていったわけだが、レヴィナスはそういうものとしての自同性には重きを置かない。むしろそういった自同性を超越することの重要性を強調する。

対象の自同性を存在者の存在としたレヴィナスは、自己については自己の自同性を自己の存在そのものと考えるわけだが、その存在としての自己がなぜ、超越されねばならないのか。その理由は、レヴィナスの他者論にある。

「全体性と無限」におけるレヴィナスの他者論は、私にとっての他者の意義をもっぱら議論したものだった。私にとっての他者は、絶対的でかつ自立したものだった。西洋の哲学の伝統にあっては、他者は私の意識の相関者であり、その意味で自立した存在ではありえなかった。それに対してレヴィナスの他者は、私の意識の相関者などではなく、あくまでも自立した存在であって、私の存在を基礎づけるような意味を持たされた。私が他者の存在を基礎づけるのではなく、かえって私が他者によって存在を基礎づけられるというのは、極端な言い方に聞こえるが、この他者を神としてイメージすればおかしくはなくなる。なぜなら、西洋の思想的な伝統においては、神が世界を創造したという考え方は、基本的には貫徹されて来たのだし、いまでも有効な考え方だからだ。

それはともあれ、以上は私にとっての他者の意義についての議論であり、他者にとっての私の意義についての議論ではない。先に他者が私の存在を基礎づけると言ったが、そのように基礎づけられる存在としての私は、伝統的な意味での私ではありえない。伝統的な意味での私とは、デカルト的な意味での私ということだ。そのような意味での私は、世界全体、それは私自身も含めた意味での世界全体のことをいうが、その世界全体を基礎づけるものであった。私はその世界の中心にあって、私自身としては自己の自同性を有し、その自同性に対象を統合することで世界全体を知的に把握している。そのような私が、自立した他者と向きあうことができるわけがない。何故なら、私は世界全体がそこで基礎づけられるような万能の存在なのであって、神の如きものだからだ。しかし、私は神ではありえないし、またそういう立場からは他者をありのままに受け入れることはできない。

私が他者をありのままに受け入れるには、欠くことのできない条件がある。それは私が自我のエゴを捨て去ることだ。その自我のエゴは、私の自同性に支えられている。したがって自我のエゴを捨て去るためには、私の自同性を超越しなければならない。そうレヴィナスは考え、次のようにいうのだ。「唯一性は自同性を欠いているのだ。即かつ対自的な意識の彼方に、一者の非自同性は存している」。この場合の唯一性とは、他者がわたしにとって唯一の存在であるように、私も他者に向って唯一の存在にならねばならないということを語っている。唯一者としての私は、自同性にとらわれていてはならないのである。

ところで、その自同性が私にとって存在の本質であるならば、「存在するとは別の仕方で」とは、その自同性の呪縛から自由になることだ。その自同性が私の対自存在の本質であるならば、他者にとっての私の存在は対他存在ということになる。私は他者に対する対他存在として、自我の存在の我執から超脱すべきなのだ。それをレヴィナスは「存在することへの我執から超脱すること」と言っている。

レヴィナスは言う、「『存在するとは別の仕方で』は『他人のために』(他人の代わりに)のうちに消え去り、『他人のために』(他人の代わりに)燃えるような痛みを味わい、この痛みのうちで、対自的な一切の措定の足場を焼き尽くす」

またこうも言う、「自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである」

レヴィナスにとって、私の他者に対するあり方、すなわち私の対他存在は、「他人のために」存在することを意味し、その「他人のために」存在するとは他人の身代わりになることを意味するのだ。どうしてそうなるのか、それについては別稿で議論したい。






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