2019年10月アーカイブ

先日、神戸市立東須磨小学校の教員間で起きた陰湿ないじめ問題では、加害者の教諭四人が謹慎処分に処されていたが、それが有給休暇制度を利用したもので、給与が支払われているのはけしからぬとして、このたび神戸市議会がかれらへの給与の差し止めを可能にする条例を作ったそうだ。市民の感情を考慮したものだというが、果たして問題はないのか。例によって日本のメディアの報道は、明確で丁寧なものとはいえないので、なにが起きているのか、よくわからないところがある。給与の差し止めなどというから、有給休暇中にかれらに支払われるべき給与を差し止めることかといえば、どうもそう単純なことではないらしい。

対話篇「パイドロス」は、ソクラテスが路上を歩いているパイドロスに声をかけるところから始まる。これから始まる対話の状況設定をしようというわけだ。対話は虚空でなされるわけではないので、いつ、どのような場所で、どのような雰囲気でなされたか、それをわかってもらったうえで、対話の内容を聞いて欲しい、そういう気持ちをプラトンはもっていて、対話を紹介する前に、それの状況設定をいささか細かく説明するのである。

ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から1946年10月1日まで開催されたが、東京裁判(極東国際軍事裁判)は、それよりやや遅れて、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた。前者が10か月ほどのスピード裁判だったのに比べ、こちらは二年半をかけている。それだけ慎重だったかといえば、かならずしもそう断言できない。しかし、ニュルンベルク裁判の教訓がある程度生かされているとは考えられる。そのもっとも顕著なものは、訴追対象となる罪状を、ニュルンベルク裁判が採用したもの、つまり平和に対する罪に特定したことである。そのため、東京裁判はA級戦犯を裁いた裁判という特徴を強くもった。

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新藤兼人の1979年の映画「絞殺」は、その前々年に実際に起きた事件に触発されたものである。その事件とは、高校生が父親に絞殺されるというものだったが、その高校生が進学校として有名な開成高校の生徒だったことで、世間の注目を浴びた。高校生が父親に絞殺されたのは、愛していた同級生の女子が、義理の父親からたびたび強姦されたあげく自殺したことにショックをうけて、世の中の大人たちを強く憎み、その憎しみが両親に対する八つ当たりとなって、家庭内暴力を振るうことになったことで、その暴力に耐えられなくなった父親が、息子が寝ているところを、締め殺してしまったのである。

今年は台風の当たりシーズンで、巨大台風が繰り返し日本を襲ったが、なかでも千葉県の被害は甚大だった。千葉県はこれまで長い間台風による直接被害を免れてきたのだが、今年は三度も巨大台風に見舞われ、そのたびに大きな被害を受けた。千葉県に育ち、いまもそこに居住する小生としては、知り合いにも被害を受けた人たちがいたりして、他人ごとではなかった。先日は、考妣の法要のために千葉県佐倉市の寺を訪ねたが、その寺も甚大な被害を受けたほか、近隣住民にも避難所に非難した人が多数いたと聞かされた。

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如拙は室町時代の中頃に京都の相国寺を舞台に活躍した画僧である。当時相国寺は、足利幕府との関係が深く、相国寺の画僧たちは幕府の保護も受けて、いわば官学アカデミー的な立場を築いていた。如拙はそのアカデミーの主催者のような地位にあり、彼の下からは周文やその弟子格の雪舟といった、室町時代の日本画を代表する画家が輩出した。

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この絵は。アルジャントゥイユの家におけるモネ家族の生活の一端を描いたものである。手前のほうの、庭の一角にはテーブルが添えられ、食事した様子が伺われる。その様子から見て食事が終わったばかりなのだろう。息子のジャンは満腹して、積み木のような遊びをしているし、背後の庭の片隅では、妻のカミーユらしい女性がもうひとりの女性と歩いている。おそらく食後の腹ごなしなのだろう。

井筒俊彦は、西洋哲学の伝統的なタームを用いて東洋思想を読解することに生涯を費やした。かれが読解作業の俎上に載せた東洋思想は、イスラームからインド仏教、中国の道教や易経にまで及ぶ。儒教については宋学で代表させているようだが、その宋学は易経のバリエーションのようなものとして位置付けられている。こうした多彩な東洋思想を、ある一つの統一的な観点から読解するのが井筒のやり方で、かれは自分のそうした作業の大部分を英語で発表した。かれの英語の能力は、まるで母国語を操るように高度なものだったらしい。そのおかげもあって、かれの著作は世界スケールで広く読まれたそうだ。それは、英語の能力の賜物でもあるのだろうが、基本的には、かれの説明の仕方が、上述したように、西洋哲学の伝統的なタームを用いていて、西洋人に理解しやすかったためだと思う。

小生が吉永小百合の映像を始めてみたのは中学生の時のこと。映画館に足を運んで「キューポラのある町」という映画に出ている彼女を見たのだったが、その時の彼女の演技というか、彼女の表情に、釘付けにされたことを覚えている。この映画の中の彼女は、まるで観音様のように慈悲深く見えたものだ。小生は、子供心に吉永小百合が好きになり、以来半世紀にわたって彼女のファンであり続けた。その吉永小百合に密着取材した番組をNHKが放送するとあって、小生は夕食をそそくさとすませて、テレビ画面に見入った次第だった。

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新藤兼人の1972年の映画「鉄輪」は、古能の傑作「鉄輪」を映画化したものである。それも単にストーリーを横引きしてというようなものではなく、原作の能の雰囲気が充分に堪能できるように工夫されている。能の仕舞に合わせて謡曲の一節が披露される一方で、音羽信子演じる昔の女が出て来て、能と全く同じ所作をする。と思うと、音羽と相棒の観世栄夫が現代の夫婦となって出て来て、鉄輪の嫉妬譚を現代に蘇らせるというわけで、かなり凝った作り方をしている。ただしあくまでも原作の能「鉄輪」の面白さに乗っかっている作品なので、能に興味のない人には退屈かもしれない。

今年のノーベル平和賞は、エチオピアの現職首相であるアビーに付与されることになった。理由はアフリカの平和に貢献したということだ。ところがエチオピアでは、アビーの強権的な政治に反発する人が多くいて、それらの人々がアビーの退陣を求めてデモを行ったところ、治安部隊が出動して、67人の死者が出る惨事となった。ノーベル平和賞とこのデモとの関連は、いまひとつはっきりしないが、エチオピアの反アビー勢力が、アビーがノーベル賞を受けることを喜んでいないことだけは確かだ。そんなことから、ノーベル平和賞がアビーに授与されることが、結果としてこの惨事をもたらしということも、否定できないようである。ノーベル平和賞が、アビーの強権政治を合理化するのを許せないというわけであろう。

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明兆(1352-1431)は、室町時代中期の日本水墨画を代表する画家。東福寺を拠点として活躍し、多くの弟子を育成するなど、当時の画壇の中心的な存在として知られ、足利四代将軍義持からも愛された。

過日、音楽家の小澤征爾と小説家の村上春樹の対談を読んで、非常に面白かった。小沢のほうが大分年が上だということもあって、対談の主導権を発揮しているように感じたものだが、それには村上のリードも働いていたわけで、村上は自分自身も音楽好きなので、小沢から音楽について学べるものを引き出してやろうという気迫を持っていたのだと思う。

先日、東京五輪のマラソン競技を、アスリート・ファーストの見地から札幌で開催するというIOCの方針が伝えられるや、東京都の知事はこれに大きく反発。そんなに涼しいところでやりたいなら、北方領土でやったらどうですかと、わけのわからぬことを言い出して世間の失笑を買ったところだが、今度は又、別のことを言い出した。暑さ対策というなら、マラソンの開始時間を繰り上げて午前五時にしたらどうかとか、復興五輪という名目を掲げているのだから、札幌より東北の方が相応しいのではないか、といった意見を知事の意向を受けたに違いない東京都の役人どもが言い出したと言うのだ。

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モネら印象派の仲間たちはキャプシーヌ大通りに面した写真家ナダールのアトリエの二階で第一回展覧会を開いたが、その際に出展したモネの絵の一枚がこれである。「キャプシーヌ大通り(La boulevard des Capicines)」と題されたこの絵は、展覧会場となった部屋からの眺めを描いたものだ。したがって訪問客は、自分が眼前に見ている眺めと同じ光景をこの絵に見たわけである。

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新藤兼人の1968年の映画「藪の中の黒猫」は、怪談仕立ての作品である。新藤のオリジナル脚本によることから、新藤には怪談趣味があったものと思われる。「鬼婆」などは、怪談とは言えないかもしれないが、般若面が顔にこびりついて離れないというような発想は、怪談に通じるものだろう。怪談であるから、ややこしい理屈はいらない。ただ怪しい雰囲気を楽しめればよい。そんなわけで、肩の凝らない、純粋に娯楽に徹した映画である。

仮想通貨といえば、とりあえず思い浮かぶのはビットコイン。いまのところビットコインに代表される仮想通貨は、金融の末端として位置付けられているが、そのうち金融の仕組を根本的に変えるかもしれない。フェースブックが計画しているリブラなどは、もし実現したら、貯金や金融決済の有力な担い手として、既存の金融秩序に割って入り、場合によっては、それに置き換わる可能性も論じられている。

「パイドロス」は、プラトンが五十歳前後の頃に、「国家」とほぼ同時に、おそらくは「国家」を書き上げてからすぐに書いたものと思われる。そんなことから、イデア論をはじめ「国家」と同じような問題意識が見られる。この時期のプラトンは、アカデメイアの運営もうまくゆき、心身共に最も充実している時で、思想ものびやかな展開を見せていた。この対話編はそうしたプラトンの思想ののびやかさがもっとも鮮やかに展開されているものである。しかも対話の舞台となっている場所は、他の対話編とは異なり。アテナイ郊外の自然の中に設定されていて、ソクラテスはその自然に包まれるようにして、自己の考えをのびやかに展開するというわけなのである。そういう点からいっても、この対話編はユニークな魅力を持っている。プラトンの対話篇のなかでも、もっとも魅力的な一編である。

第二次世界大戦の結果をめぐっては、ドイツは敗戦国として、戦争責任を一手に負わされることとなった。その責任には二つの側面があった。一つは人類史上最悪でかつ最大規模の戦争を引き起こした張本人としての責任、侵略者としての責任であり、もう一つは、人類の想像を絶するようなホロコーストを行った責任である。これらの責任は、ニュルンベルク裁判では、平和に対する罪及び人道に対する罪という新しい犯罪概念に整理された上、ドイツの戦争遂行責任者とホロコーストの実施者とが厳しく裁かれた。

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2009年のイラン映画「ペルシャ猫を誰も知らない」は、現代のイラン社会に生きる若者たちをテーマにしている。この映画を見ると、イラン社会というのは非常に抑圧的な社会で、若者たちは、自分の好きなこともできない、ということが伝わって来る。それでもそこをなんとかして、自分のしたいことをしようともがく若者たちを、この映画は描いているのである。題名に含まれているペルシャ猫とは、現代のイランに生きる若者たちのことを言い、その若者たちの苦悩を世界の人たちに理解してほしいという意味が、この題名には込められているのだと思う。

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良全は、可翁よりややあとの時代に東福寺を拠点に活躍した画僧だったと思われる。生涯の詳細は明らかでないが、その作品に乾峯士曇の賛があることから、臨済宗と深いかかわりがあったと推測される。また、その落款に海西人良全筆とあり、海西が九州をさすことから、九州出身だとも推測される。乾峯士曇は一時博多の禅寺にいたことがあるから、その時に乾峯士曇と知り合い、一所に京へ出てきたのかもしれない。

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モネは1870年にカミーユと正式に結婚し、翌71年に妻子とアルジャントゥイユに移り住んだ。アルジャントゥイユはパリ北西のセーヌ川沿いの町である。ここでモネはセーヌの水辺や、近くの田園地帯を好んで描いた。この「アルジャントゥイユのひなげし(Les coquelicos a Argenteuil)」は、そうしたものの一点で、「印象」などとともに第一回目の印象派展に出展された。

井筒俊彦は、講演集「イスラーム文化」において、イスラーム文化を特徴づけるものとして三つのものをあげた。主流派としてのスンニー派、反主流派としてのシーア派、そして異端思想としてのスーフィズムである。そのうち、スンニー派とシーア派の基本的な特徴について、「イスラーム文化」では触れていたわけだが、スーフィズムについては、その名をあげるだけで詳しい言及はしなかった。そのスーフィズムについてもっぱら紹介したのが、この「イスラーム哲学の原像」である。

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ハーフェズとは、イランでコーランを暗唱できるものに授けられる尊称ということらしい。アボルファズル:ジャリリの2007年の映画「ハーフェズ ペルシャの詩」は、そのハーフェズをモチーフにした作品だ。前作「ダンス・オブ・ダスト」ほどではないが、言葉を最小限に抑えているので、筋の展開を追うのに苦労するところがあるが、一人のハーフェズの青年の試練を描いたものだということは伝わって来る。

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鉄舟徳済は室町時代前期の臨済宗の僧侶。夢窓疎石に師事し、後には入元して、月江正印らのもとで参禅した。帰国後は、京の天龍寺、万寿寺に住し、禅の傍ら水墨画を楽しんだ。水墨画は元で学んで来たもので、禅の余技としてたしなんだようである。可翁とは元で見知りになったと思われる。鉄舟はまた、草書の名人としても有名であった。貞治五年(1366)に亡くなっている。

大江健三郎はノーベル賞受賞の記念講演を、少年時代に耽読した二冊の本への言及から始める。一冊は「ハックルベリー・フィンの冒険」、もう一冊は「ニルスの不思議な旅」である。少年の大江健三郎は、これらの作品を通じて、自分が世界文学につながっているということを次第に自覚していったという。だから、日本人としては、川端康成に続いて二人目の受賞者になったとはいえ、自分は川端よりも、71年前にこの賞を受賞したウィリアム・バトラー・イェイツのほうに魂の親近を感じた、と大江は言うのだ。ということは、日本人としてよりも人類の一員としてのアイデンティティを感じているということだろう。

トランプ弾劾に向けての米議会下院での調査が進行しているが、つい最近まで、下院による弾劾は成立しても、上院での弾劾裁判でトランプが大統領を罷免されることはありえないというのが、大方の観測だった。ところが、この二・三日の間に情勢が急転し、もしかしたらトランプ罷免はありうるかも、という憶測が公然と語られるようになった。

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官展に落選しつづけた若い印象派の画家たちが、モネを調整役として結社をつくり、自分たちだけの作品を展示する展覧会を開いた。1874年4月のことである。その結社は、「画家、彫刻家、版画家などによる共同会社」というそっけない名前だったが、ピサロ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾなどが参加していた。彼らはキャプシーヌ大通りにある写真家ナダールのスタジオを展覧会の会場とし、合わせて165点の作品を持ち寄った。モネも5点の絵を出品した。「印象、日の出(Impression, soleil levant)」と題するこの絵は、そのうち最も注目を集めたものである。

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アボルファズル・ジャリリの1992年の映画「ダンス・オブ・ダスト」は、イランの民衆の過酷な生活ぶりを描いたものである。その過酷な生活は、小さな子どもたちも巻き込み、子どもたちはろくな教育も受けられぬまま、親たちと一緒につらい労働に従事する。イランには、こんな過酷な現実があるのかと、思い知らされる作品である。そのような描き方が、イランの政治を批判していると受け取られたらしく、この作品は上映禁止となったそうだ。上映が許されたのは、1998年のこと。

東京オリンピックのマラソンと競歩の種目を、札幌で開催する案がIOCで真剣に検討されているそうだ。名案といえるので、おそらくその方向で実現する可能性が高い。開催都市たる東京都の知事は強く反発しているそうだが、選手の健康第一という名目の前では、その言い分は通らないだろう。小生は、基本的にはIOCの案に賛成だ。

藤沢令夫はプラトンを、ギリシャ文化の大きな伝統の中に位置づける。一つは対話を重視する伝統、もう一つはイオニアの自然哲学をはじめとするギリシャ人の宇宙観だ。この二つの伝統がプラトンにおいて融合し、壮大な思想体系が作られたというのが藤沢の見立てである。対話の伝統についてはともかく、自然哲学については、プラトンは物質的な自然よりも精神を重んじたという理解が定着しているので、藤沢の見立てはユニークと言えよう。

連合国側には、終戦以前からすでに、ドイツの戦争責任を犯罪として追及しようとする動きがあった。その動きには二つの流れがあって、一つはドイツという国家を戦争犯罪の主体として裁こうとするものであり、もう一つは、国家ではなく、戦争を実際に遂行し、その過程で戦争犯罪を実行した個人を、個人として裁くべきだというものであった。前者は、アメリカの政治家モーゲンソーによって代表されるもので、「モーゲンソープラン」とも呼ばれており、戦時中はこれに共鳴するものが多かったのだが、戦後は、その影響力を弱め、代わって、後者の流れが有力になった。ニュルンベルク裁判を頂点とする、対独戦争犯罪追求裁判は、基本的には個人の犯罪を追及するという形をとったのである。

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2001年のイラン映画「柳と風」は、少年同士の友情と少年のあふれるような使命感を描いたものだ。そう言うと、アッバス・キアロスタミの名作「友だちのうちはどこ」が想起されるが、それもそのはず、この映画を監督したのは当時かけだしのモハマド・アリ・タレビだったが、脚本を書いたのはキアロスタミだ。こういうタイプの映画が繰り返し作られるのは、イラン人の嗜好を反映しているのか。

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黙庵は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての禅僧で、嘉暦(1326-28)頃に入元し、至正五年(1345)彼の地に没した。かれの入元の目的は、当時人気のあった禅僧古林清茂に師事することだったが、古林はすでに死去していたので、その弟子の了庵清欲に師事した。禅を体得するかたわら、水墨画を楽しみ、かれの死後それが日本に輸入された。日本では長らく黙庵を、中国人の高僧と思い込んでいたが、大正時代に日本人と判明し、以後可翁と並んで、日本の初期の水墨画を代表する画家という位置づけが与えられた。

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1869年の秋、モネは友人のルノアールとカンバスを並べてラ・グルヌイエールと言われる行楽地の光景を描いた。この行楽地はパリの西、セーヌ川沿いの町ブージバルの近くにあり、パリから日帰りで行ける行楽地として人気があった。かのナポレオン三世も、妻とともに遊んだと言う。

井筒俊彦という人を、筆者はこの年(古希)になるまで知らなかったが、たいへん迂闊なことだったと思っている。イスラーム文化に造詣が深いほか、インド仏教や中国思想にも通じており、それらを土台にして、東洋思想として共通する要素を探求した人らしい。その業績については、追々読み進んで行こうと思っているが、とりあえず「イスラーム文化」と題した著作(岩波文庫)を取り上げたいと思う。

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ジャファル・パナヒの2015年の映画「人生タクシー」は、アメリカン・ニューシネマの傑作「タクシー・ドライバー」のイラン版といってよいような作品だ。タクシー・ドライバーの目を通して、その国の同時代のさまざまな側面が浮かび上がって来るということになっている。おのずから批判的な傾向を帯びがちだが、この作品の場合も、それとは明確に意図しないままに、反体制的な内容になっている。パナヒはその反体制ぶりで、なんども権力の弾圧を受けて来たが、そうした弾圧をものともしないというメッセージが、この映画からも伝わって来る。

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可翁は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。我が国の水彩画の伝統の先駆者ともいえる存在である。初期の水墨画は禅寺を舞台にして展開されたが、可翁も東福寺所縁の禅僧だったと思われる。その画風は禅味を感じさせるもので、我が国初期の水墨画が、それ以前の白墨画と呼ばれるものから、本格的な水墨画に移行していく結節点のような位置付けがなされている。

「燃え上がる緑の木」という題名は、アイルランドの詩人イェイツの詩からとられている。イェイツについて大江は、「懐かしい年への手紙」のなかで度々言及していたが、この「燃え上がる緑の木」では、小説の大きな原動力としてイェイツを位置付けている。というのも、ギー兄さんを中心とする宗教的な運動は、イェイツの詩の精神によって鼓舞されているからだ。キリスト教の福音にあたるものを、イェイツの詩が果たしているといってもよい。

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1868年の春、モネはパリの百キロ以上西のセーヌ川添いの町ボニエール・シュル・セーヌ近くのベンヌクールに滞在し、そこでセーヌの水辺の光景を描いた。「水辺、ベンヌクール(Au bord de l'eau, Bennecourt)」と題するこの絵がそれである。この絵を通じてモネは、水の表現に夢中になった。やがてモネは、水の表現を完璧のものにして、晩年の一連の睡蓮の絵を描くわけだ。

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ジャファル・パナヒの2006年の映画「オフサイド・ガールズ」は、イランの熱狂的なサッカー少女たちを描いたものだ。イラン人のサッカー好きは有名で、少年たちは街頭でサッカーを楽しむのが生き甲斐だ。そんな少年を、アッバス・キアロスタミが「トラベラー」という映画の中で描き、イラン人がいかに少年時代からサッカーに熱中しているか、世界中にメッセージを送った。その熱中ぶりは、日本の野球少年に勝るとも劣らないようだ。

ソクラテスに対して有罪の評決がなされ、それについてソクラテスから自分に対する刑罰への意見が述べられたあと、いよいよその刑罰が下されるのだが、それは死刑だった。これをソクラテスは予期していたようであったが、自分に相応しい刑罰とは思わなかったようだ。というのもソクラテスは、「あなたがたは知者のソクラテスを殺したというので、非難されるでしょう」と言っているからである。そして自分が有罪で死刑になったのは、厚顔と無恥が不足したためだと言う。つまり、自分には何も悪いところはないが、法廷の裁判官たちの愚かさのために殺されるのだと強調するのだ。そんな裁判官たちには、ソクラテスの死後懲罰が下されるだろう。その懲罰は、ゼウスに誓って言うが、もっとつらい刑罰になるだろう。かれらを吟味にかける人間がもっと多くなり、彼らを悩ますことだろう。というのも、今までは自分に遠慮して吟味を控えていた者たちが、自分の死後は遠慮なしに吟味するようになるからだ。

連合国の対日占領政策は、ドイツの場合とは大分趣が異なっていた。まず、事実上アメリカの単独占領であったこと、それに対応するかのように、日本に対して懲罰的な意図を露骨にもった国が存在せず、比較的温和な占領政策がとられたことだ。温和といっても、相対的な意味合いであって、日本を完膚なきまでに叩きのめし、二度と連合国の脅威にならぬように弱体化しようとするような露骨な意図を振りかざさなかったという意味であって、日本を再び軍国主義国家としてよみがえらせないようにしようとする配慮は働いていた。その配慮が、一連の戦後改革につながり、その総仕上げとして日本国憲法が生まれたわけだ。それをどう評価するかについては、日本国内でもいまだに意見の相違があり、一方で日本の戦後改革を、日本が欧米並みの民主主義国家になるうえで、必要でかつ望ましいものだったと積極的に評価するものがある一方、戦後改革によって日本は伝統的な国体を毀損されたとし、その象徴としての憲法に敵対する勢力もある。

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ジャファル・パナヒによる2000年のイラン映画「チャドルと生きる」は、現代イラン社会における、女性たちの境遇を描いたものだ。この映画を見せられると、現代の地球の一角に、女性がかくまでひどい抑圧を受けている社会が厳然としてあることに驚かされる。女性への抑圧ということでは、タリバーンとかISとかが思い浮かぶが、これは一応大国と言えるイランでのこと。イランはイスラームの社会ということだが、イスラームというのはどこでも女性に抑圧的なのかと、思わされてしまう。イスラーム映画でも、アッバス・キアロスタミの映画は、女性への抑圧はほとんど感じさせなかったので、どちらがほんとうのイランの姿なのか、考えさせられてしまうところだ。

日本の水墨画は中国の影響を強く受けながら発達した。鎌倉時代には、白画といって、線描主体の絵が中心だったが、室町時代に入ると本格的な水墨画が描かれるようになり、雪舟において芸術的な頂点に達する。安土桃山時代には、狩野派や長谷川等伯のような名手を出し、徳川時代にも綿々とその流れは続いた。そうした日本の水墨画の歴史にあって、室町時代は大きな転換期といえる時期だ。

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「サン・タドレスのテラス(Terrace à Sainte-Adresse)」は、海辺の自然の中に人物を配したもので、自然と人物との調和をテーマにした一連の作品の一つである。この絵でモネは初めて海景を表現したが、海辺の日光はきわめて強烈なので、モネは光の効果を最大限表現することができた。

井筒俊彦は、日本人としてはスケールの大きな思想家だ。活躍の舞台が日本に限定されておらず、それこそ世界を股にかけた活躍ぶりを見せたというだけではない。思索の対象が全人類をカバーするほど広範囲だ。こういうタイプの思想家は、井筒以前には日本にはいなかった。国際的な名声という点では、鈴木大拙などは先駆者といえるが、大拙の場合には、ほとんど禅の領域に特化し、禅が国際的な関心を高めるのに乗った形で名声を高めたというような具合である。ところが井筒の場合には、彼の達成した学問が国際的な関心を高めることにつながったという点で、自ら名声を呼び寄せた。じつにユニークでかつスケールの大きな思想家だといえる。その井筒を小生は、最近になって読み始めたのだが、なにせ古希を過ぎて頭が固くなってきている頃合いなので、どれほど正確に井筒の主張が理解できているか心もとないが、井筒は噛んで含めるような、わかりやすい文章を書くので、小生のように頭の悪い老人でも、なんとかついていけた。

関西電力の幹部が、不明朗な金品を受領していた問題が大きな騒ぎを引き起こしている。金の出どころは原発立地自治体の元助役で、その金の大本の出どころは関西電力の工事を請け負っていた企業だ。つまり工事代金の一部がキャッシュバックの形で関西電力の幹部にわたっていたということで、これは古典的な汚職の構図と同じものだ。

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アスガル・ファルハディは離婚のモチーフが好きと見えて、「別離」に続く作品「ある過去の行方」でも離婚を描いている。こちらは、イラン人の夫とフランス人の妻との離婚がテーマだ。この夫婦は、互いにエゴイストが結びついたらしく、自分たちの離婚によって周囲の人間が傷ついていることを意に介しない。その周囲の人間の中には、自分にとってかけがいない人も含まれるのだが、それらの人への人間的な配慮は、この元夫婦、とくに元妻には全く感じられない。「別離」で出て来た夫婦も、自分のことしか頭にないエゴイストの男女だったが、この映画の中の元夫婦は、それ以上にエゴイストである。そのエゴイストのうち、イラン人の男よりフランス人の女のほうがひどいエゴイストであることに、監督であるアスガル・ファルハディの意趣を読み取ることができよう。

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百鬼夜行絵巻は、だいたいが朝日を最後に描いている。妖怪たちは、日の出のやや前に籠から抜け出してさまよい歩き、日の出とともに籠に戻るというのがパターンだった。真珠庵本も、そのパターンにしたがい、巻物の最後に朝日を描いている。

大江健三郎には、反体制運動に共感する傾向があって、それを小説の中でも表現することがある。「燃え上がる緑の木」では、それがかなり複雑な形をとっている。ひとつは、主人公のギー兄さんを革命党派の生き残りと設定しながら、敵対する党派の生き残りによって襲撃され、殺されてしまうというような、ちょっとわかりにくい話を挿話的に挟み込んでいること。もうひとつは、ギー兄さんらの宗教的な巡礼の行進が、四国にある原発を事故でダウンさせたというような、ポレミカルな設定の話を盛り込んでいることだ。

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「草上の昼食」を中断したモネは、同じようなテーマでもう一枚描くことを決意した。今度は、「草上の昼食」より小さなサイズで、戸外で完成させるように意図した。とはいっても、絵のサイズは2.5×2.0㎝もある。このカンバスの上部を描くためにモネは、地上に竪穴を掘ってそこにカンバスを埋め込んだのだった。そうすれば脚立を用意しなくとも描くことができる。

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2009年のイラン映画「彼女が消えた浜辺」は、アスガル・ファルハディの出世作となったもので、イラン人の生き方とか考え方を、広く世界に認識させる効果があったといわれる。その効果とは、イラン人は一般に想像されているような宗教的で敬虔な人々であって、またその分因習にとらわれているといったそれまでの見方が訂正されて、かなり世俗的であり、かつ自分本位でドライな人間関係を取り結んでいるという発見だったように思える。実際この映画の中に出て来る人々は、前作の「別離」に出て来る夫婦に負けず利己的で、また宗教意識をほとんど感じさせないのだ。「別離」でもそうだったが、この映画の中の女性たちは、スカーフこそ被ってはいるが、顔や肌を見せることを躊躇しないし、また男同様ドライブを楽しんでいる。そういう光景を見ると、今でも女性のドライブが制約されているサウディ・アラビアなどとは、かなり違うという印象を受ける。

自分には死を恐れる理由はないと語ったソクラテスは次いで、自分を殺すことはポリスにとっての損失になると主張する。その理由としてソクラテスがあげるのは、「わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに、付着させられているから」というものだった。「つまり神は、わたしをちょうどその(馬を目覚めさせておくための)あぶのようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難することを、少しも止めないものなのです」。そんな私を殺すことは、あなた方を目ざめさせる者がいなくなることを意味し、したがってポリスは全体が眠ってしまうようなことになるであろう。それは不都合なことに違いない。それなのに私を殺そうとするのは、「眠りかけているところを起された人々のように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、わたしを叩いて、軽々に殺してしまう」ようなものだ。

ドイツを分割占領した四か国の、ドイツに対する占領政策には当初かなりの相違が認められた。というのも、四か国からなる連合国管理理事会は、立法権を持つに過ぎず、またそれも形骸化しがちな中で、実際の政策執行は、各占領地域の軍政長官の権限にゆだねられたからである。各軍政長官は、それぞれ出身国の意向を強く反映して、それぞれが独自の政策を追求する傾向が強かった。したがって戦後のドイツでは、四つの占領地域で、それぞれ異なった性格の統治が行われたといってよかった。ドイツ国民は、どの地域に住んでいたかによって、異なる統治に服したのである。

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アスガル・ファルハーディーによる2011年のイラン映画「別離」は、イラン人の日常を信仰にからめながら描いたものだ。信仰とはほとんど無縁な小生のような日本人にとって、実にショッキングな内容のものであった。この映画を見ると、イラン人というのは、生活のあらゆる部面で信仰に向き合っており、その信仰は貧しい庶民の間でより強固であって、それが故に、金や知識のある連中よりも不利な境遇に置かれていると伝わって来る。不利どころか、場合によっては、徹底的なダメージを蒙るのであるが、そのダメージをイランの貧しい人びとは、神の試練として受け止めて、なんら悔いることがないようなのである。

台風15号は千葉県の人びとに甚大な被害をもたらした。小生は千葉県民ではあるが、幸い甚大な被害に見舞われることはなかった。だが、日頃仲よくしている千葉県民には甚大な被害を被った人もいて、小生は友人として、憂慮に耐えない。そんな千葉県民に打撃を与えたのが自然災害であることは、小生にも理解できるが、その自然災害がこんなに甚大化したのは、人災も作用しているのではないか。特に東京電力の責任が重いと思うのだが、国や千葉県の行政当局にも責任があるのではないか。

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右端に、幣帛の下にいるのは、猫の妖怪。なにやら巻物を読んでいる。その前の銅鈑子の化け物も、やはり巻物を手に持って読んでいる。銅鈑子は和製カスタネットというべきもので、その名のとおり銅でできている。これを手に挟み持って、左右の銅を打ち付けながら音を鳴らすわけだ。

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