戦後右翼の特徴反共・親米:日本の右翼その十二

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戦後右翼が順調に復活できたのは、逆コースといわれる政治の流れの変化があったためだ。それはアメリカの反共政策に伴なうものであった。アメリカは、日本の行き過ぎた民主化が、共産勢力の伸張をもたらすことを恐れ、右翼の復権を図る一方、共産党や労働組合など反米的な分子をレッド・パージと称して弾圧した。

それでも、1950年前後の日本は、極めて政治運動が盛んで、またストライキなどの労働争議も頻発していた。高まる反政府運動に危機感を抱いた保守政権は、それへの対抗に右翼を利用した。右翼が戦後復活したばかりか急速に力をつけていったのは、権力がいわば保護・育成したことの結果でもあった。その好例としてあげられるのが、保守政権による「防共抜刀隊」の結成である。これは1951年に、当時の吉田内閣の法務大臣だった木村篤太郎の呼びかけで実現したもので、全国のやくざやテキヤが多数加わった。そのやくざたちをまとめた梅津勘兵衛は、日本橋の侠客で、戦前には「大日本国粋会」を立ち上げている。その大日本国粋会は、いまではやくざの懇親組織で山口組の系列団体である「国粋会」として残っている。

1955年に保守政党が大同団結して自民党が結成されると、木村はその院外団体として「自由民主党同志会」なるものを作った。木村はこれを自民党の息のかかった武装組織として、左翼の運動に対抗させるつもりであった。実際には、左翼をけん制するより、自民党を名乗って金をせしめることに熱心だったという。金のせしめ方は、事件をかぎつけて、その解決と称して介入することであった。そのためかれらは、「自民党を拠点とする事件屋集団」というイメージを持たれた。

1960年安保に向けて、国内の情勢は沸き立ち、反政府運動が盛んになった。それに危機感を抱いた自民党は、右翼を積極的に使って、左翼の弾圧を試みた。右翼最大の出番は、1960年における国会周辺の抗議行動への、政府の保護と称する武力介入であった。この際に、全国から12万人の右翼が動員され、華々しい活躍ぶりを示した。それまでどちらかというと闇の存在であった右翼が、日の当たる場所に躍り出たわけである。

右翼の力を結集させることを目的に、大同団結の動きがいくつか見られた。1959年に全愛会議が結成されたことは前述のとおりだが、そのほか、その前年の1958年には木村篤太郎やまた安岡正篤らが「新日本協議会」を立ち上げている。これには右翼の財界人(たとえば三菱電機会長高杉晋一)も関わった。また同じころに、「日本国民会議」なるものも結成された。これは右翼団体だけではなく、「成長の家」などの宗教団体も加わっていた。かくして全国的に組織化された右翼は、自民党によって、反共・反革新勢力への対抗を目的とした暴力装置としての役割を期待された。

かように、戦後の右翼は、保守政権を担当する自民党と深く結びついていたのである。そのため、右翼のスローガンも、自民党のそれへならうというような体裁を呈した。戦前の右翼は、皇道中心主義と反欧米が旗印であったが、戦後の右翼からは、反欧米のスローガンはなくなり、かえって親米の姿勢を強めた。その理屈は、共産主義勢力と対決するために、アメリカの力を利用するというものだったが、実態としては、アメリカが日本を反共の砦として利用していたわけである。

親米と並んで、戦後右翼のスローガンとなったのは反共だった。反共が最重視されるあまり、韓国とは対北朝鮮で一致した。そのころが、日本の右翼が韓国にもっとも親愛感を抱ていた時期だ。

戦後右翼のなかで大きな影響力をもった一人として児玉誉志夫がある。児玉は戦時中軍部と深いかかわりをもち、巨額な財を築いた。戦後はその財をもとにしてさまざまな政界工作に暗躍し、政界の影のフィクサーと呼ばれた。かれは巣鴨で岸信介と一緒だったよしみもあって、岸のためにずいぶん働いた。その活動の原資としては、豊富な資金のほかに、彼独自の実働部隊の存在もあった。かれは、「青年思想研究会(青思研)」を立ち上げ、自分の用心棒として使った。この青思会から「日本青年社」が生れた。日本青年社は、1978年に魚釣島灯台建設問題を起こしたことで知られるが、現在でも、右翼の単一団体としては最大規模を持つといわれる。

青思会から分派した団体としてもう一つ、「防共挺身隊」があげられる。これは、「街宣」と呼ばれるような、戦後右翼の行動スタイルの基礎を作った団体といわれる。当初は「大日本愛国党城南地区本部」と名乗っており、赤尾敏の「大日本愛国党」とつながりがある。赤尾敏も、その最晩年にいたるまで、街宣車で街をならし、辻説法をしていたものである。赤尾敏は、派手なパフォーマンスで一部のものに人気があったが、基本的には反共親米であって、戦後右翼の大道を歩んだということができよう。

その赤尾が主宰する大日本愛国党は、未成年者を煽って気に入らぬ者にテロを加えるようなことをやった。1960年の浅沼社会党委員長の暗殺だとか、「中央公論」掲載の小説「風流夢譚」をめぐって、中央公論社長宅を襲撃して家人を殺傷した事件などだ。中央公論事件はメディア界に深刻な恐怖を与え、以後日本の主要メディアは右翼を恐れて近寄ることを避けるようになった。これは右翼にとっては貴重な学習であり、国内の敵を黙らせるテクニックを身に着けたといってもよかった。





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