中論を読むその十二:原因と結果との考察

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原因と結果との考察についての中論の議論は、一見して論理的なものである。論理的に考えると、原因と結果の関係は、すでに原因が結果を含んでいる場合にのみ成り立つということになる。これは普遍的なことなので、いかなる場合にも成り立つ。それは、ある特定の原因が与えられればそれに対応する結果もすでに与えられているというふうに表現される。因果関係はしたがって、カントの言葉を用いれば、アプリオリなものである。アプリオリというのは、論理必然的に成り立つと言う意味である。

因果についてのそうしたアプリオリの見方に対して、中論は異議を唱える。原因と結果についてのその異議は、「原因と結果が同一であるということは、決してありえない」というふうに言い表される。ここで同一というのは、結果が原因のうちにすでに含まれているということであり、同一律で表現されるような同一ではない。ともあれ、中論のユニークなところは、この命題を否定するような命題を同時に提起するところにある。それは「原因と結果とが別異であるということも、決してありえない」と表現される。このあたりは、中論独特の否定の論理がここでも働いていることを感じさせる。

以上の(措定)命題と反命題のセットは、次のように言い換えられる。まず、(措定)命題については、「もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるもの(能生)と生ぜられるもの(所生)とが一体になってしまうであろう」と言い換えられる。これは不合理である。一体となってしまうものならば、原因と結果とを区別する根拠がなくなるからである。また、反対命題については、「原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうだろう」と言い換えられる。これも不合理である。なぜならその場合、原因と結果との間の論理的な関係はなりたたず、原因と結果というふうにそれぞれ見えるものは、偶然の関係にほかならないことになるからである。

原因と結果との関係を、論理的な関係とは見ずに、経験にもとづく総合的な判断と見るのは、イギリス経験論の論客ヒュームとの親近性を感じさせる。ヒュームは、原因と結果との間に論理的な必然性はなく、あくまでも経験に基く総合判断だとしたうえで、その結びつきの偶然性を主張した。たとえば、経験的にいえば、これまでほとんどすべての人間が死んで来たことを理由にして、人間が死すべき存在だと主張することはできない。たしかに、これまではすべての人間が死んで来たが、今後もすべての人が死ぬとは限らない。たとえばそう言う自分自身、いつまでも死なないで生き続けるかもしれない。そうヒュームは主張し、その主張にカントも理解を示したものだった。

だが、ヒュームと中論とは決して同じ主張をしているのではない。ヒュームとヒュームに依拠したカントは、分析命題の論理必然性は認めたものの、経験的な認識をめぐる論理必然性は認めず、経験的な判断はあくまでも偶然の結びつきをめぐるものだと主張した。それに対して中論の立場は、経験的な認識の論理性を認めないことに加えて、分析命題の論理必然性も認めないのである。中論の立場は、論理的な必然性なるものも、人間の頭が考え出した虚構のものであって、それ自体としての実体性をもたない。実体性をもたないことを中論では空というが、空なるものにはあらゆる必然性は存在しないのである。だから、論理必然性を認めることもできない、ということになる。

要するに中論の基本的な立場は、あらゆる存在に実体性を認めず、空であるとするものである。論理というものは、実体的な事柄について適用するものであるから、実体性のないものすなわち空性のものについては、因縁を云々するのは筋違いというわけなのである。






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