中論を読むその十三:転倒した見解の考察

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中論第二十三章は「転倒した見解の考察」である。ここで転倒した見解というのは、誤った見解をさす。その誤った見解のために、貪欲とか嫌悪とか愚かな迷いというものが生じる。したがって、そうした誤った見解が消滅すれば、貪欲以下の煩悩の原因もなくなる。煩悩こそは人間の苦悩の原因であり、その苦悩があやゆる存在を流転のうちに放り投げるのであるから、さとりを得て涅槃に至るためには、苦悩から脱却しなければならない。そう説くのが、この章の目的である。

ところで、誤った見解というのは、中村訳では、浄と不浄と並置されているが、平川訳では、浄と不浄を混同することだという意味に訳されている。ここでは平川訳の意味に従うことにする。

ともあれ、煩悩を消滅させるためには、転倒した見解を正さねばならない。ところが、中論のここでの議論は、例によって、転倒そのものが成り立たないという方向にもっていく。そもそも転倒が成り立たないのであるから、転倒した見解も成り立たないというわけである。これはかなり乱暴な議論に聞こえる。問題を解決するのに、その問題の原因を探るのではなく、問題そのものの存在を否定するようなものである。

どのようにして否定するのか。煩悩はかならず誰かにとっての煩悩である。つまり煩悩を担っている人の存在を抜きにしては、煩悩は存在しえない。ところが、その担い手つまり煩悩の主体は、通常アートマン(自我)と考えられる。ところがこれまでの議論によって、アートマンの実体性は否定された。実体を持たないものは、存在しているとも存在していないともいわれるが、それが何らかの事柄を担うわけにはいかない。実体を持たないものは、実体的な対象を所有することはできないからだ。

この辺の事情を、中論の本文は次のように表現する。「これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかるにその人が成立しないのである。なにか或るもの(拠り所)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである」。これを形式論理的にいうと、いかなる人も存在しないから、そのいかなる人にとって存在するものもないということになる。

こういうことで、中論がいかなる人も実在せず、また、煩悩も存在しないと言っているわけではない。経験的な存在としてならば、人が存在していることは明らかだし、その人が煩悩に囚われていることも否定できない。中論が言っているのは、そういうことではなく、アートマンにしろその認識対象にしろ、それらが実体として存在するという主張を論駁しているのである。人が実体として考えているのは、実は実在的な存在ではなく、人間の頭が考え出した抽象的な概念に過ぎない。それを実在とみなすことは、誤りである、とう主張をしているわけで、その点では西洋の唯名論と同じようなことを言っているわけである。

人間(アートマン)にしろ、その人間を含めた世界の存在全体(五蘊)にしろ、人間の感官の対象(六根)にしろ、すべてそれ自体としては存在せず、人間の認識がとらえた抽象的な概念にすぎない。概念自体には実体性はないのである。そうした事態を中論は、「陽炎や夢のようなものである」と表現している。

ところで、煩悩は転倒した見解によって起こり、その転倒した見解は、浄と不浄を混同することで起るのであった。そこで浄と不浄の関係が問題となる。浄と不浄とは、それぞれが実体的なものとして互いに対立しているように思念されるが、実は、対立ではなく、相互依存の関係にある。浄があってはじめて不浄がある。不浄はそれ単独では何物でもない。その逆も言える。不浄がなければ浄もない。ここまでは分かりやすい議論だ。ところが中論は更に一歩進んで、分かりにくい議論に踏み込む。浄がなければ不浄はなく、不浄がなければ浄がないのであれば、そもそも浄も不浄も存在する余地がないというのである。その主張をもとに、浄なるものが存在しないのならば、貪欲が起ることもなく、不浄なものが存在しないのならば、嫌悪が起ることもない、という具合に一気に飛躍するのである。





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