小林政広「歩く、人」:老人の意地を描く

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小林政広の駆け出し時代の映画「歩く、人」は、老人とその二人の息子たちの父子関係を描いた作品。それに、老人のある若い女への恋心をからませてある。要するに、近年における日本の老人の境遇の一典型をテーマにしているわけである。

老人は、自分に対してプライドを持っており、そのプライドで息子たちを支配しようとするがなかなかうまくいかない。一方老人には惚れた女性がいて、毎日雪の中をとぼとぼ歩いて彼女のいるところへせっせと通う。そこはサケの養殖場で、女はそこの住み込み職員なのであった。その女のところへ、雪のなかをとぼとぼ歩いて通うことから、邦題では「歩く、人」といい、どういうわけかフランス語でつけた副題には「L'homme qui marche sur la neige(雪の上を歩く男)」というわけである。つまりこの老人は、老人ながら自分自身の意地にこだわっているのである。

老人は六十台半ばの年齢で妻をなくして二年がたち、もうすぐ三回忌を行うつもりである。その三回忌に老人は二つのことをしたいと思っている。一つはしばらく音沙汰不通の長男を来させること、もう一つは、三回忌を契機に妻への義理立てから解放され、惚れた女と一緒になることだった。老人はその惚れた女に決心をあかし、女のほうでもまんざらではない様子だったが、どういうわけか老人のほうから心変わりし、女は傷心して去っていくのである。

一方、老人は次男と一緒に暮らしており、その次男を長男のもとに派遣して、連れてこさせようとする。長男は拒絶する態度を見せるが、結局愛人を連れてやってくる。だが、父子の間の感情のもつれから、大喧嘩となってしまい、長男はあきれて父親のもとを去っていく。失望した父親の気持ちをさとってやるのは次男ばかり、というような内容だ。

一応、緒形拳演じる老人の生きざまがテーマなのだが、それにしては、この老人はわがままで自分勝手な人間として描かれており、愛する女とも血をわけた長男ともうまくやっていけない。その愛する女をなぜあきらめたのか。そこがこの映画のもっともわかりにくい部分だ。老いらくの恋に陥ったものの、自分などには女を愛する資格などない、と観念したからか。そうだとしたら、いささか悲しい話である。

こんな老人は、今の世の中ごまんといるはずだ。そんな老人の意地を描いたからといって、なにか面白いことがあるとも思われない。そんな老人を、情緒たっぷりに描いたこの映画は、老人に対して世知辛い今の日本社会に、老人をもっと大事にしろといっているのかもしれない。 





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