小林政広「バッシング」 不寛容な社会

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小林政広の2005年の映画「バッシング」は、2003年から2004年にかけて起きたイラクでの日本人人質事件にヒントを受けた作品。この事件では、複数の日本人が人質になり、無事解放された日本人と殺害された日本人で運命がわかれたが、解放された日本に戻ってきた人は、厳しいバッシングにあった。この映画はそのバッシングをテーマにしたものだ。

事件の経緯を知ったうえで、この映画との関連性を考えると、一応最初に解放された三人との関連が考えられるが、映画はドキュメンタリーではなくドラマ仕立てなので、あくまでも創作としてみたほうがよい。そうした前提でこの映画を見ると、人質になった人の生き方にかかわるというより、かれらへの日本社会の厳しいバッシングに焦点があたっていると感じさせられる。この映画の真の主人公は、バッシングにあった特定の人間ではなく、それをバッシングして悦に入っている日本社会そのものである。もともと同調圧力の高い日本社会が、日本全体を騒がせるような事件に直面すると、その事件を引き起こした当事者を同調圧力に従わない異分子として糾弾し、徹底的にバッシングする。その不寛容な日本社会の雰囲気がこの映画のテーマといってよい。

一応ドラマと前提したうえで、映画を見る。直接の主人公は、中東で人質になり解放されて帰国した若い女性である。その女性に対して、彼女の住んでいる町の人々が激しいバッシングをおこなう。そのバッシングは、彼女自身にとどまらず、家族にも及ぶ。そのため父親は自殺に追い込まれる。父親の配偶者で彼女の継母は、父親を死なせたといって彼女をせめる。居場所を失った彼女は、日本で生きていくことは無理だと判断して、再び中東に脱出するといような内容である。

実際にあったことなのかはわからない、おそらく小林の脚色なのだと思う。その脚色で小林が言いたかったことは、日本社会のかかえる闇の部分の息ぐるしさだと思う。それについては、先ほど言及した同調圧力とか自己責任の強調とかいったものがあるが、映画はそうした背景についてはほとんど触れない。ただただ陰湿に展開されるバッシングの異常さを淡々と描写するばかりである。その禁欲的ともいえる描き方が、かえってこの映画に壮絶な迫力をもたらしている。





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