小林政広「愛の予感」

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小林政広の「愛の予感」は、実に変わった映画である。冒頭と最後の場面で多少説明めいたセリフ回しがあるほかは、本編ではまったくセリフがないのである。だから無言劇といってもよい。無言劇というのは、音のあふれる世界であえて沈黙をつらぬくということで、見る方としては戸惑ってしまう。人はたまに無言になることはあるが、つねに無言であることには慣れていない。ところがこの映画は、その無言を貫いているのである。

登場人物は実質二人しかいない。この二人は子供同士を介してつながっている。女の子供が、男の子供を殺したという設定である。その二人の親が、たまたま北海道で鉢合わせる。そこで無言の劇が始まるのである。男も女もいっさい口をきかない。ほかに何人か出てくる人間たちも沈黙したままだ。だが音が全く聞こえないというけではない。食器のがちゃがかいう音とか、製鉄工場の音とかは聞こえてくる。だがそれらの音は、背景音としてはともかく、実際には何の情報も担っていない。

映画の冒頭の場面で、この二人の男女が出てきて、子供同士の殺人事件の模様を語り、加害者の親の気持ちと被害者の親の気持ちがひととおり披露されたあとで、本体部分に移っていく。その舞台は北海道の増毛という町で、男はそこの製鉄所に仕事を得ている。男は社員寮のような場所から製鉄所に通っているのだが、その寮の食堂に女のほうが賄い婦として働いている。だから二人は毎日顔をあわせる。だが決して口をきかない。そればかりか、男は女に出された食事のうち、生たまごを飯にかけて食うだけで、料理には箸をつけない。そこがかたくなに見えるので、男が女に意趣を持っているのかと思わせられる。しかし全く何らの説明もないので、見ているほうはわけがわからない。

そのうち、男が女にちょっかいを出したりして、多少の動きが生じたりもするが、劇的な展開に発展することはない。二人はあいかわらず、それまでの無言の生き方を続けるだけなのである。

映画の最後の場面で、男が女を認識していたことが暴露されるので、男の不可解な振る舞いにはそれなりの理由があったと納得されるのだが、見ている間にはそんなことはわからないので、ただただ不気味に感じるのである。

そんなわけで映画の常識を無視したかなり変わった映画である。しかも主人公の男を監督の小林政広自ら演じている。自分の映画に出たがる監督としては塚本辰也があるが、塚本がハイな演技を見せるのに対して、小林は地のままで主役の不可解な雰囲気を醸し出している。

タイトルに「愛の予感」とあるが、この映画の中の男女に愛が芽生える可能性はないようである。なお、映画の舞台となった増毛は、「歩く、人」及び「バッシング」の舞台ともなっていた。





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