実存主義とは何か:サルトルの倫理思想

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サルトルの著作「実存主義とは何か」(1945)は、一応サルトルの倫理思想をはじめて披露したものということになっている。同時に第二次大戦直後に俄かに流行現象となった実存主義について、その思想的な意義を弁明したものである。というのも、サルトルの認識によれば、サルトルらの実存主義は大きな誤解を受けている。左翼のマルクス主義者も、右翼のカトリック勢力も実存主義を激しく攻撃しているが、それは彼らが我々を誤解しているからなのだと言って、サルトルは実存主義の弁明にあいつとめているといった具合なのである。

倫理学としてのこの著作が、認識論としての「存在と無」とセットになっていることは、カントにおいて、認識論としての「純粋理性批判」と倫理学・道徳論としての「実践理性批判」がセットになっているのと同じような意味合いを持つ。カントは、「純粋理性批判」で棚上げした「物自体」としての神とか霊魂の不死といったものを、「実践理性批判」においては、いわば裏口からこっそりと導きいれ、それをもとにカント一流の道徳哲学を展開したものだった。サルトルの場合には、カントの神に相当するものは視野にない。かれは徹底的な無神論者を自認しているので、神といった超越的な概念で人間性を基礎づけるようなことはしない。かれにとっては、人間を基礎づけるのは超越的・外在的な概念ではなく、人間自身である。その人間は、自由な意識として捉えられている。つまり「存在と無」において展開された人間の概念が、そのままかれの倫理学を基礎づけるのである。だから、すくなくともこの時点においては、サルトルの立場は自由な意識というものを唯一の原理とした一貫性のあるものである。サルトルはのちに、マルクス主義者の唯物論を受け入れ、人間を社会的な存在としてとらえる視点を取り入れるようになるが、その場合でも、サルトルの社会性は非常に抽象的なスローガンにとどまっていて、人間の個別意識の延長でしかありえなかった。だが、ここではそれに深入りすることはやめて、戦後間もないこの時点でのサルトルは、あくまでも個人的な意識の自由をもとに人間の倫理的な行為の意味を考えるという姿勢を貫いていたことを確認しておきたい。

サルトル自身による「実存主義」についての講演と、それをふまえての討論からなっている。討論において、サルトルが対面するのはマルクス主義者たちである。マルクス主義者は、サルトルには真の意味の社会的な視点がないと言って批判するのであるが、それに対してサルトルの反論は説得性のあるものではなく、討論はすれ違いの議論に終わっている。この時点のサルトルは、まだ「存在と無」の唯心論的な立場にこだわっており、人間の関係は、社会的な関係というよりは、意識と意識の間のきわめて抽象的な関係にとどまっていた。サルトルのいう他者とは、あくまでも私の意識の相関者であって、私の意識を除外視しては、その存在の根拠をもたないようなものである。そういうわけであるから、個人を社会関係の網の目ととらえ、社会を個人よりも先に置くマルクス主義とは、折り合いのつくわけもなかった。

サルトルは、実存主義者を二つの流れに分類している。一つはヤスパースやマルセルなどの有神論的実存主義、もう一つはハイデガーや自分自身を含めた無神論的実存主義である。この分類は大きな影響をもつようになり、一時期は日本の社会科の教科書もこの分類方法を取り入れたほどである。もっとも、実存主義という言葉には、ヤスパースは一定の理解を示したが、ハイデガーは全く問題にせず、自分は実存主義者ではないし、ましてヒューマニストでもないと断言した。

そのハイデガーの気持を無視するかのように、サルトルは実存主義者には共通する一つの考えがあるといっている。それは簡単にいうと、「実存は本質に先行する」ということだ。どういうことかというと、実存は偶然的なものであって、なにものかによって基礎づけられる前にすでに存在しているというような意味だ。人間にはだから、本来的人間性といったような、いわばアプリオリな定義は成り立たない。人間は、本来性といったような空虚な概念によって基礎づけられるのではなく、人間自身がその行為を通じて作りあげていくものなのある。人間のなす行為の全体、それがイコール人間なのだ、というのがサルトルの基本的な立場である。

そういう立場においては、人間の自由な意思に基づく選択が決定的に重要なものとなる。しかもその自由な意思の担い手としての人間はあくまで意識としてとらえられている。「存在と無」において展開された意識のさまざまな様相の全体像が人間の本質をなすのである。本質といっても、それはハイデガーがいうような意味での本来性ではない。人間にはそもそも本来性といったような意味での本質はありえず、人間はたえず自分の自由な選択にもとづいて自分自身を未来に向かって投げ企てていくべき存在だというふうに捉えられているのである。

そんなわけであるから、この著作におけるサルトルはまだ「存在と無」という大きな尻尾を引きずったサルトルであって、したがってマルクス主義者と理解しあえるはずもなかった。そのサルトルがマルクス主義の唯物論を取り入れれ、彼流の社会理論を展開するようになるのは、もっと後のことである。だがそれが成功したかについては議論があろう。一応「弁証法的理性批判」が、実存主義とマルクス主義との和解を目指した著作ということになっているが、この著作は整然とした展望の下に書かれたとはなかなか言えないのである。

なお、サルトルがここで使っている「ヒューマニズム」という言葉は、文字通りには「人間主義」という意味であるが、具体的には、人間を人間以外のものによって基礎づけず、人間そのものによって基礎づけるような立場という意味である。





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