小林政広「海辺のリア」:現代日本の親捨物語

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小林政広の2017年の映画「海辺のリア」は、シェイクスピアの有名な戯曲「リア王」を下敷きにした作品。「リア王」のテーマは、子による親捨だった。この映画もまた、子による親捨て、つまり子に捨てられた父親の嘆きをテーマにしたものである。時代も社会状況も全く違うから、この二つの親捨てを同じ平面で論じることはできないが、親捨てという普遍的な事象について、いくらかは考えさせてくれる。

「リア王」のプロットはよく知られていると思うので、ここでは触れない。この映画の中で、そのリア王を彷彿させるのは、仲代達矢演じる老人である。この老人は認知症にかかったことで、娘に無理やり施設に入れられ、遺言書まで書かされる。遺言書のことはともかく、老人は、認知症に陥っているとはいえ、生きる気力は満ち溢れており、施設を抜け出して自由を求め歩く。かれがとりあえず歩くのは、施設の近くにある海辺だ。リア王を彷彿させる老人が海辺を歩くところから「海辺のリア」というわけであろう。

その老人に一人の若い女が近づいてくる。老人がかつて妾に産ませた子だ。その子は、父親である老人に深い恨みを抱いている。自分を余計者扱いした挙句、産んだばかりの子供ともども家から追放したからだ。かくしてその女と老人とが、海辺を歩きながら、さまざまなやりとりをする。そのやり取りの中から、現代日本社会における、寒々とした家族関係が浮かび上がってくるようになっている。貧乏人はともかく、多少の金を持っている人間は、金と引き換えに人間的な触れ合いを失う、というような雰囲気が伝わってくる。

シェイクスピアの「リア王」が娘たちに捨てられた理由は財産であった。この映画の中の老人も、財産が親子関係を破壊しているのである。「リア王」では、末娘のコーディリアが父親に最後まで誠実だったが、彼女は殺されてしまう。この映画の中の妾の子は、父親の老人を死の危険から救う。そこがこの映画の中の唯一人間的な部分だ。

リアを彷彿させる老人を仲代達矢が迫真の演技で演じている。彼にとって最高の演技なのではないか。仲代は、「春との旅」に出演して以来、これで三本目の小林作品である。三本とも老人の最後の命の輝きみたいなものを演じきっている。すばらしい演技というべきである。仲代自身も、最晩年にいたって、役者らしい役を演じることができて、役者冥利につきたのではないか。





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