鈴木大拙「華厳の研究」を読む

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鈴木大拙は自分自身を禅者として認識している。その禅者としての立場から華厳経を研究したものが「華厳の研究」である。大拙が華厳経を禅と結び付けて考えるようになったきっかけは、二つあるように思える。一つは、禅そのものが体験本位のあまり文字を軽視する傾向がはなはだしい結果、ある種神秘主義に陥りがちになるので、その神秘主義が極端に陥らぬよう、ある程度文字による哲学的な支えが必要になる。華厳経は、その支えになる資格があると大拙はみた。もう一つは、大拙自身の禅の体験を、文字によって他人に知らせようとする場合、華厳経に描かれた世界の描写が非常に頼りになる。大拙は、禅定によってある種のさとりの境地に達するのを感じるのだが、そのさとりの境地を言葉で表せば、華厳経の描写する世界となるのではないか。つまり華厳経が描いた世界は、禅者が禅の境地として体験する世界なのではないか。そのように大拙は考えて、華厳経を禅と強く結びつけて考えたようである。

まず、禅が神秘主義に陥りやすい傾向があることについて。禅は、インド人の達磨が中国に伝えたものだが、達磨にあった哲学的な傾向が、中国においては削り取られ、哲学的な思弁よりも実際の体験を重視するようになった。禅の体験というものはなかなか言葉では言い表しづらい。あえて言い表そうとすると、臨済宗の公案のような、一寸わけのわからぬ言表、世間で禅問答といわれているとんちんかんな言葉のやりとりに陥ってしまう。それでも大拙のような、禅の体験を重ねた禅者は、禅問答を理解できるようであるが、普通の人間に理解したがいところがあるのは無論、禅に親しんでいるものでさえ、自分の体験の意味が分かっているものは少ない。それはやはり、禅が個人的な体験の内部に閉じこもっているせいで、そのため他人の理解をあえて求めないからだ。しかし、それでよいのだろうか。禅が全く文字と無縁であると言ってよいのなら、それでもよいのだろうが、大拙はそれでは、禅は普遍的な意味を持ちえないと考える。だいたい大乗仏教というのは、個人の救済ではなく、衆生という名の、世界全体のさとりをめざしたものだ。それが、個人の体験にひきこもるのでは、小乗と異ならないではないか。大乗仏教としての意義を発揮するためには、禅にも文字による基礎づけが必要である。その基礎づけを華厳経が与えてくれる。そう大拙は考えて、華厳経と禅を結びつけたのだと思う。

二つ目の、さとりの世界を描いたものとしての華厳経の世界について。これについて大拙は、華厳経のうち「入法界品」を取り上げて、そのお経に描かれた境地を禅によって達することのできる境地とした。だから、他人から禅の境地とは何ぞやと聞かれれば、華厳経入法界品を読めと応えればよいことになる。それほど入法界品の説くところは、禅者が理想とするさとりの境地に近いと大拙は考えるのである。そのさとりの境地を一言でいえば、相即相入ということになる。あるいは円融無碍ともいう。相即相入とは、一切のものが互いに相入しつつ一体化していると同時に、個物が個物として存在している事態をあらわす。具体的には、個物がそのまま全体であり、一が多であり多が一であるような事態のことだ。すべての存在が互いにとけあって、さしさわりのないことから円融無礙とも言われるのである。

そうした相即相入の世界を、法界という。法界は現世から超絶した世界ではない。現世そのものの中に法界はあると考えられる。現世に生きながら、その法界に入ることが、禅の目的であり、また、華厳経入法界品の説くところである。禅は、浄土系の思想と比較して非常に現世的な傾向が強いといわれるが、それは法界を超絶した別世界としてではなく、現世そのもののうちで実現されるものと考えるからである。

以上のような問題意識をとりあえず提起したうえで、大拙は華厳経の具体的な内容に踏み入っていく。その場合、華厳経のうちで入法界品が中心に論じられ、付随的に十地品などが言及される。

その前に、華厳経を理解するための手がかりとして、つぎの六観があげられる。
(1)万法が帰するところの寂静の一心を観ずる。
(2)一心からあらわれるところの個別の世界の不可思議を観ずる。
(3)万法が無礙に相即相入するのを観ずる。
(4)如幻的な存在がそれぞれの影をそこに投ずるところの外には何ものも存在しないのを観ずる。
(5)即の鏡中には万象の映像が映じてしかも一々の影が他を妨げるようなことのないのを観ずる。
(6)全宇宙にわたって完全な主伴関係が相互に存在していて何か一つのものを引きあげると、他のすべてのものがそれについて上って来るのを観ずること。

これらは畢竟、一心こそが究極の実在であり、そこからすべての存在が流出してくるという「三界唯心」の思想を反映したものである。華厳経の説くその唯心思想を、禅もまた共有していると大拙は考えるわけである。





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