ベールキン物語:プーシキンの短編小説集

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プーシキンの短編小説集「ベールキン物語」は、正確には「故イヴァン・ペトローヴィチ・ベールキンの物語」といって、1830年の秋、ニジゴロド県ボルヂノ村の別荘で短期間で書き上げた。その時プーシキンはナターリア・ニコラーエヴナ・ゴンチャローヴァと婚約したばかりだった。だから精神的に充実していたはずだ。それまでプーシキンは主に詩を書いており、その延長で韻文の作品「エヴゲーニイ・オネーギン」を書いたりしていたのだったが、心機一転して散文の作品を手がけた。とりあえずは短編小説集という体裁をとったが、そこに収められた五つの短編小説は、ロシア文学最初の本格的なリアリズム小説であり、のちのロシア文学の、とくに小説の手本となったものである。

手の込んだ構成をとっている。刊行者たるプーシキンがじかに書いたのではなく、その友人たる故イヴァン・ペトローヴィチ・ベールキンが、生前書き上げた短編小説を紹介するというような体裁にしているのだ。なぜ、そんな体裁をとったのか。真の意図はわかならい。プーシキン名義(A・Пと署名している)の序文には、いろいろと御託が並べられているが、形式をとりつくろうための言い訳のようなものにすぎない。

五編の短編小説相互には、なんらの関連も認められない。あえて言えば、五編のうち三篇(その一発、吹雪、偽百姓娘)は地主階層の人間関係を、二編(葬儀屋、駅長)は下層階級の人間の生活を描いているというふうに区分できる。プーシキン以前には、下層階級の人間がロシア文学の主題となったことはないらしいから、これは非常に画期的なことだとする評価がある。

「葬儀屋」と「駅長」を読むと、ロシアの庶民の意識の特徴がよく出ていると感じる。その意識とは、自分の運命をすなおに受け入れ、どんな悲惨な境遇にも順応してしまういじましさというようなものだ。「駅長」の主人公の老人は、最愛の一人娘を旅の男に騙し取られ、なんとか取り戻そうとしてかなわず、ついにその境遇に屈従する。彼にはいかんともしがたいのだ。そこでかれは、娘のことは神様におあずけするといって、あきらめてしまうのである。また、「葬儀屋」の主人公は、人から自分の商売を馬鹿にされることへ反発したりもするのだが、結局はその境遇をそのままに受け入れてしまう。そんな彼にとっての慰めは、かつて彼が送った死人たちと親しく言葉をかわすことくらいなのだ。死人たちは言うのだ、「おれたちはお前のお招きで起き上がってきたのじゃよ、それほどお前のところへ来たかったのじゃ」(神西清訳)

地主を主人公にした作品のうち、「その一発」は決闘をテーマにしている。決闘ほど、ロシア文学に固有というべきテーマはない。フランス文学などにも決闘を描いたものはあるが、それはサブプロットの一つとしての扱いであって、決闘そのものが全編のテーマとなるような作品はないといってよい。ところがこの短編小説は、短編ながら、決闘そのものをテーマとしている。決闘は単に小説の世界でもてはやされるばかりでない。ロシア人、とりわけ上流階級の人間にとっては、決闘は日常的なことがらなのだ。ロシア人は、自分が侮辱されたと感じた時、決闘をする以外に、その憂さを晴らす手段を持たなかったらしい。そこでちょっとしたつまらぬことから、決闘に及ぶことが多い。プーシキン自身、37歳のときに、つまらぬことから決闘に及び、命を粗末にしたのである。レールモントフにいたっては、満二十六歳にして決闘で死んだのだった。

「吹雪」と「偽百姓娘」は、地主階級に属する男女の恋を描いたものだ。吹雪のほうはその恋が実らないことを描き、「偽百姓娘」のほうは、親同士の対立を乗りこえて若い男女が結ばれる。しかも女のほうがリードを取りながら恋を成就させるのだ。チェーホフなどが小説に描いたロシア女は、自律性に欠けた優柔不断な人間としての面が強く表れているが、プーシキンが描くロシア女は、自立して自分の考えで行動するのだ。

プーシキンがこのようにロシア女をある意味理想化しているのは、婚約したばかりのナターリア・ニコラーエヴナ・ゴンチャローヴァへの愛が働いたためかもしれない。






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