菩薩道:鈴木大拙「華厳の研究」

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鈴木大拙は、華厳経の三つの重要概念として、菩薩道、発菩提心及び菩薩の住処をあげている。菩薩道とは、声聞や縁覚といったいわゆる小乗の行者と比較した大乗の行者としての菩薩の道をいい、発菩提心は、衆生を救済すべく菩薩たらんとする決意をいい、菩薩の住処とは菩薩が到達した境地をいう。これら三つの重要概念の詳細な説明が、第二篇以下の課題である。

その第二篇は、「華厳経・菩薩理想及び仏陀」と題して、菩薩の道にとどまらず、仏陀のいかなるものかについても詳細に説明しているが、ここでは菩薩の道についてもっぱら取り上げてみたい。

菩薩の修行のあり方については、法華経も重点的に説いているところである。大乗仏典の中で、そもそも菩薩の修行の意義を集中的に説いたものが法華経であった。法華経以前の大乗経典は、仏陀とその高弟とのやりとりという体裁をとったものがほとんどで、菩薩が前景化することは少なかった。法華経にいたってはじめて、さまざまな菩薩が登場し、菩薩自身の言葉で仏の教えを説くという形式が整えられた。そういう点では、法華経をもって菩薩道を本格的に説いた最初の体系的経典とみなすことができる。

華厳経は、法華経のそうした姿勢をさらに前へ進め、菩薩こそが大乗仏教の真の担い手だとする。単に担い手としてではなく、仏になることが約束された人として描く。菩薩は、仏になりつつある人間として、仏と一体のものとして描かれるのである。そうした菩薩の意義の解き方は、菩薩の十の地(修行の段階)について説いた十地品に顕著であるが、入法界品を含めた華厳経典全体が、菩薩の修行のあり方について説いているといえる。

華厳経は菩薩の本質的特徴を声聞・縁覚との比較において説明する。華厳経によれば、舎利弗や阿難といった釈迦の高弟で、般若経以下の大乗の初期仏典で活躍する人々も声聞として位置付けられる。かれらは釈迦の教えを聞いて、みずからの涅槃を求める人々である。自分自身涅槃に向けてさとることが目的であって、他の衆生のことは、とりあえず眼中にない。そのような人々と菩薩とは全く異なっている。菩薩は自分自身さとりを得るだけではなく、広く衆生を救済し、かれらにもさとりを得させるように努める。そのように衆生の悟りを願う気持ちは仏陀とかわりないのであり、したがって菩薩は仏陀と一体であると考えられる。それに対して声聞は、仏陀の教えを受けるものであって、自ら仏になる資格はない。個人的な悟りを得たものとして、阿羅漢の称号を得るにとどまる。

菩薩を声聞から区別する最大の要因は大慈悲心だと大拙はいう。「大慈悲心こそ実に大乗仏教の特質で、大乗仏教を仏教史上のこれに先立つ他のあらゆるものから区別するものなのである」。大慈悲心とは、他の衆生を救いたいと願う利他の心をいう。単に自分自身の福利を願うのではなく、衆生全体の救済を願う。華厳経はその衆生の範囲に、有情のみならず非情も含める。「非情までも含む一切衆生の正覚と解脱と救済とに関連する」のが菩薩の本願なのである。こういった非情を含めた衆生の救済という思想は、法華経の「草木国土悉皆成仏」の思想と通じるところがある。非情を含むことによって、単に人間や他の動物だけではなく、地球環境全体を破滅から救いたいという願いが込められているのであろう。

そういう考えは、人間は個として、全体との関連から切り離されて生きている、というわけではないという思想に基づいている。全体としての宇宙があって、はじめて個としての人間が存在できる。また、全体も個なくして成り立たない。そこに全体と個との間の相即相入という関係を指摘できる。「完全な関係の体系が、個体的諸存在の中に、また個体と普遍者との間に、個物と一般概念との間に存している。相互関連のこの完全な網の目細工が大乗教哲学者の手許で『相即相入』という述語的名称をうけたのである」

菩薩と比較した声聞の限界について、大拙はさらに詳しく言及する。舎利弗をはじめすべての声聞衆は、「真理が明らかにされ得る智慧を手に入れたし、実際に住し、究竟寂静を享受してはいる。がしかし、一切衆生に対する大悲救護の心を有していない、何となれば、かれらは、自己自身のことに余りに深く専念していて、菩薩の智慧を積集し、これを修習する心をもたないからだ。かれらは自らのさとりを得てはいるが、他の有情にもまたそこに安らぎの処を見出してやろうという願望もなければ、また誓いをたてることもない。このようにしてかれらは如来の不可思議力が真実に何を意味するかを知らぬのである。要するに、声聞はなお非常に大きな業障に覆われているのである。かれらは菩薩の如く一切衆生の霊性の安らぎのために誓願を立てることはできぬ、かれらの知見は生のあらゆる神秘を徹見するほど明澄透徹なものではない、彼らは『華厳経』で知眼と名付けられているものをまだ見開いたことがないのである」

菩薩は、仏になりつつある人間である。ということは、仏とはこの世界から超越した彼岸の存在ではないということだ。菩薩と仏とが連続の関係にあるように、此岸と彼岸とも連続の関係にある。彼岸と思われていたものは実は、此岸のうちにあるのだ。華厳経の説くところは、仏がわれわれの身近にいるということなのである。そこに大拙は禅者として魅力を感じるということであろう。禅者の目的は生きながら涅槃に入ることであった。その涅槃は、超越的な彼岸ではなく、此岸の内に内在している。我々凡夫も、その境地に達することができる。そう大拙は考えるわけであろう。






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