菩薩の住処:鈴木大拙「華厳の研究」

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菩薩の住処とは、菩薩が達したさとりの境地をいう。華厳経入法界品では、それは「毘盧遮那荘厳楼閣」という言葉で表現される。その楼閣に、善財童子が立ち入ることを許される。かれをその楼閣に案内するのは弥勒菩薩である。弥勒菩薩は、釈迦の次に娑婆に仏陀として現れることを約束されている。通常は兜率天の内院に住んでいるとされるが、華厳経入法界品においては、毘盧遮那荘厳楼閣において、善財童子を迎える役を果たす。

この楼閣は、「空・無相・無願の意味に達しているもの、一切の法は分別を超えていることを知るもの、法界には隔在ということがないと知るもの、一切の衆生は不可得であると知るもの、一切の法は不生であると知るもの~このような人々が好んで住むところである」と説明される。要するにさとりを得るために必要なことを成就したものが住むところというわけである。そのさとりの境地を楼閣のような建物に例えるのは、華厳経独特のロジックであろう。

ついで善財菩薩の偈頌というかたちで、この楼閣に住む資格のある人々がどのようなものかについて語られる。かなり詳細にわたるのであるが、ここではその例をいくつか示す。

「この楼閣は、般若の智慧を具有し、諸法不生の理に入り、法性本来虚空の如く、空行く鳥の、作さず、依らざるがごとしと了達せる、かの賢者らの、住み給うところなり」

「この楼閣は、貪瞋痴に自性なく、虚妄は分別より起ると知りて、しかもまた、貪瞋痴より離脱せんと分別することもなく、和らぎと静けさに、達せしものの、住み給うところなり」

「この楼閣は、三解脱、四諦の教え、八聖道、蘊・処・界、縁起の連鎖の意味を知り、しかもなお、寂静の道に陥らず、般若の智慧のはたらきに、たくみなる人々の、住み給うところなり」

「一念の中に、一切の劫・国土・仏名を保ち、その一切包摂の智慧によって、一念の中に無量の劫をおさむるもの、かの人々は、この楼閣に住み給う」

次に、楼閣のすばらしさが語れれる。さまざまに形容されるが、一言でいうと、「広闊にしていみじく妙なる荘厳に飾られた」ということになる。それを善財童子は、弥勒菩薩の導きによって見るのである。「弥勒菩薩の神力に加治せられて、善財はその身が遍く同時にこれら諸々の楼閣の一々の中に在ることを見、またそこにおいて菩薩の生涯に関して起るところのあらゆる不可思議なる出来事が果てしなく連続することを見る」。その弥勒菩薩が、はじめに慈心(マイトラ)と呼ばれる三昧を証得したこと、それより以後慈氏(マイトレーヤ)として知らるるに至ったことを善財は知る。マイトレーヤとは、弥勒菩薩の梵名である。

善財童子が毘盧遮那仏荘厳楼閣の様子を見ることができたのは、無論弥勒菩薩の配慮のおかげであるが、また、どんな人にも、そのような機会があるものだと語られる。たとえば、死ぬ間際の夢の中でである。「人がまさに死のうとする時には、その生前の行業に従って死後彼の身の上に起るところのあらゆることを眼前に見るものだ・・・まだ本当に死んでしまっている訳ではないが、そのおのおのの業の故に、このような幻を見るのである。これと全く同様に、善財もその不可思議な菩薩の行業の故にあのような不可思議な光景を見ることができるのだ」

ともあれ、毘盧遮那仏の楼閣のすばらしさ、不思議さについて、あらゆる言辞が動員される。それは饒舌といってよいほどである。その饒舌すなわち多言縷説が、人々の好奇心を刺激し、楼閣のイメージを具体的に抱かせるということを、お経は十分にわきまえているのである。

弥勒菩薩の示す楼閣は、法界にほかならないと大拙は言う。そこで法界がいかなるものか、あらためて説かれる。「ある見地からすると法界すなわち世(間)界ではない。何故かというと、世間界は相対と個多との世界だからだ。がしかし、他の見地からすれば法界がすなわち世(間)界である。法界は空虚な抽象物に満たされている空処ではなくて、具体的な個物が充満しているところであることは、荘厳事とか荘厳とかいう言葉が用いられていることからも知られる。法界の個多のものには完全な秩序が存する。その秩序は次のように叙述せらる。すなわち、すべてのものが隔在せずに溶け合っているのだが、それでいて一々のものがそれぞれの個性を決して失うことのないように荘厳せられている。法界ではすべてのものが溶融するのであるが、しかもその個性を決して失わない。法界は一般に無礙と名付けられる。法界は光明の世界である」

ここで澄観の四法界の説が紹介される。澄観の四法界は、事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界というふうに説明されるが、大拙は次のように説明している。「(1)個物の世界としての法界。この場合には界は『何か隔在するもの』を意味すると考えられる、(2)一心または一胚体の顕現としての法界、(3)すべての個物的存在が根源的な一心と相即する場としての法界、(4)この個物がそれぞれすべての他の一々の個物と相即し、およそれらの間に存し得るいかなる分離線もなくなるようになる場としての法界」

澄観は中国華厳宗の第四祖とされ、仏教の中国化に大きな役割を果たした。禅もまた中国化された仏教といえるので、禅者である大拙が、澄観に親近感を抱くのは自然のことである。






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