加藤周一の新井白石論その二

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徳川時代にあらわれた思想家のうち誰を贔屓にするかについては、評者の個人的な好みのようなものが大きく働くと思う。丸山真男が荻生徂徠を贔屓にしたのは、徂徠を日本の近代化に向けての先駆者として位置づけたいという思いがあったからだと思うし、ハーバート・ノーマンが安藤昌益を高く評価したのは、昌益のうちに革命思想の萌芽をみて感動したからだと思うし、森鴎外が大塩平八郎に思い入れを深めたのは、平八郎が鴎外のこだわっていた男の意地を体現していたと思ったからだろう。では、加藤周一が新井白石を贔屓にするのはどんな事情からか。

ごく単純化して言うと、白石の実証的で科学的な態度が、それまでの日本ではまったくなかったものであり、したがって日本の思想家としては画期的だったということになる。そういう点で白石はスケールの大きな思想家である。おそらく空海と肩をならべるようなスケールの大きさであり、そういうスケール感を持っているのはほかに道元くらいしかないと加藤はいっている。こうしたタイプの思想家は、前の世代から断絶したものを感じさせる。というか時代を超越しているのである。時代を超越しているから、すくなくとも彼以降の時代においても生き延びることができる。じっさい白石が身をもって示した実証的な態度は、その後の日本を導くようなインパクトをもっていた。

そうした実証的で科学的な態度を白石がどのようにして身に着けたか。白石は基本的には独学の人であって、師匠とか学派というものとは無縁だったから、自分自身の学問的な努力のうちからそうした態度を身につけたと思われる。その場合に重要なのは、白石が、外国である中国の文化に対して非常に強い関心を持っていたということだろう。中国文化は、日本では長らく、仰ぐべき理想として受け取られてきたが、白石は外国の文化としてとらえたうえで、それと日本文化を比較することで、日本文化を相対化する視点を獲得した。そうした視点が白石に実証的な態度をとらせるようになったのだと思われる。

白石の業績は多岐にわたり、そのいずれにおいてもレベルの高さを誇っているが、なかでもかれの歴史学は非常に実証的でレベルの高いものである。白石の時代においては、歴史は多分に名分論に毒されていた。たとえば、水戸藩の編纂した「大日本史」などは、偏狭な民族意識にさまたげられて、資料の選択や歴史的事件の評価に偏ったものを感じさせる。それに対して白石は、中国の古文書に記された日本にかかわる記述を、資料として採用し、日本史を相対的な視点からみることができた。中国の文献を「からごころ」の表れとして頭から拒絶した本居宣長などと真逆なやりかたである。

そうした実証的な姿勢は、行政官としての白石の行動にも働いていた。白石は行政官として、多くの訴訟案件にかかわったが、その場合には、あくまでも事実に基づいて判断することを基本とした。白石は、ものごとの判断基準を、まづ主張されていることがらが事実と合致しているかということに置き、事実が明らかでないときは、訴訟当事者の主張が論理的に矛盾がないかどうかにおいた。きわめて実証的であると同時に論理的でもあったわけである。

実証的であるということは、ものごとのとらえ方において開放的であるということである。そうした開放性を感じさせる例として、イタリア人シドッティとのやりとりがあげられる。シドッティに対して白石は日本の行政官として取り調べる立場にあったわけだが、そうした権威を振りかざすことはなかった。白石はシドッティを一人の人間として尊重し、その言うことを謙虚に聞いた。そうすることで、世界についての知見を広め、また深めることができたのである。

実証的で論理的ということは、合理性ということにつながる。実証的で論理的な人間であった白石はだから合理的な人間といえるかどうか。基本的にはそう言えると思うが、白石には、合理性一辺倒で片付けられないところがある。それは白石が、武士としての矜持にこだわっていたことである。加藤は、白石が武士の子として生まれ、武士のメンタリティを強く体現していたところに注目する。

武士のメンタリティが朱子学と親和的であることは間違いない。白石の場合もこの両者が深く結びついていた。白石は朱子学の体系を深く信じ、それをもって世界を解釈しようとした。その朱子学と実証的な態度とがどのような関係にあるのか。朱子学はあくまでもイデオロギーである。それにたいして実証主義は方法論の問題である。白石は、実証的な方法論を用いて朱子学的な世界観を構築していたということになる。その朱子学的な世界観を踏まえながら、白石は自分自身武士としてのメンタリティにこだわったというのが加藤の見立てである。

とはいえ、白石には、占いを信じるという面もあった。占いが合理的なのかそれとも非合理なのか、それについては問わないとして、白石には、事実や論理で判断できないときには、易占いにたよるという傾向があった。じっさい白石は易を深く信じていたようなのである。易もまた朱子学の構成要素の一つであるから、易を尊重すること自体には不自然なものはないが、それにしても、合理主義者であった白石が易を信じていたというのは面白いことだ。

(この小論は、先般白石論の一環として書いた「加藤周一の新井白石論」の続稿である)






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