発菩提心:鈴木大拙「華厳の研究」

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さとりにはいろいろな呼び方があるが、大拙は究極のさとりを「無上正覚」と呼んでいる。その無上正覚の成就こそ、大乗でも小乗でも、およそ仏教の究極の目的である。もっとも小乗はさとりを個人の問題としてとらえるのに対して、大乗はこれを世界全体の問題としてとらえるという相違はある。だが、輪廻を解脱して涅槃の境地をめざすという点では同じである。その境地を、仏教全体としてさとりとか無上正覚とか呼んでいるわけである。しかして、その無上正覚への願いを発することを発菩提心という。

この発菩提心について大拙は、さまざまな角度から説明している。まず、その発菩提心の内容を簡略に表現したものとして、「四大願」をあげる。これは「四弘誓願文」とも呼ばれ、とくに禅宗寺院で好んで誦せられている。漢語では「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」というふうに書かれるが、これを大拙は次のように言っている。
  衆生かぎりなくとも必ず度せんとわれは誓願す
  煩悩尽くることなくとも必ず断ぜんとわれは誓願す 
  仏法の教え無量なりとも必ず学ばんとわわれは誓願す
  仏の道無上なりとも必ず成ぜんとわれは誓願す

発菩提心を「発阿耨多羅三藐三菩提心」と漢訳しているものがあるが、これは間違いだと大拙はいう。「発阿耨多羅三藐三菩提心」とは文字通りには「正覚心を起す」と言う意味だが、発菩提心とは、「正覚に対する願いを抱く」ということだと言うのである。

いずれにしても、無上正覚に対する願いを起すことが大事だということである。仏教はすべて、この願いから発する。仏陀もまた、その願いを発することから究極的なさとりへの道を切り開いたのである。その仏陀と同じ道を菩薩はじめあらゆる衆生はたどらねばならない。それにはまず、発菩提心が肝心である。これがなければ何も始まらないのだ。

では、無上正覚への願いを発せさせるものは何か。それは、(1)大悲心、(2)大慈心、(3)安楽心(一切有情を安楽ならしめんとする心)、(4)饒益心(一切有情を諸悪からはなれしめんとする心)、(5)愛愍心(一切有情を畏怖の想いから救護せんとする心)。(6)無心、(7)広大心、(8)無辺心、(9)無垢心、(10)清浄心、(11)智慧心、である。

また願いを発起するためには、(1)道徳的行為、(2)仏陀及び善友の護念、(3)浄らかで、真実で、愛に満ち、一切を抱擁する心、が必要である。

無上正覚自体の構成要素としては、次の三つがあげられる。
(1)智慧。仏果所属の智慧で時間・空間の中にある一切のものを徹見する智慧、一目で宇宙のあらゆる隅々まで見通し、また永遠を見渡すものであるから、それは相対差別の領域を超越する智慧である。
(2)意志力。全世界を生死の繋縛から解き放とうという究極の目標に到達しようと願って、その途を遮るありとあらゆる障礙を打破する意志力である。
(3)一切を包容する慈悲。これは一切衆生の霊的安寧を増進するために、智慧及び意志力と結合して、倦むことなくあらゆる手段をあみいだすものである。

これら構成要素を、詳しく述べたものとして、大拙は十地経の次のような言葉を引用する。
一 大悲心 この願いの主要な原動力
二 智慧 この願いの支配的要素
三 方便 この願いを擁護するもの
四 深心 この願いを支持するもの
五 如来の力と等しきもの
六 一切有情の力と智慧を弁別する力を具せるもの
七 無礙知に趣向するもの
八 自然智に相応するもの
九 般若智、所生の智慧によって、一切有情に仏法を教えることのできるもの
十 虚空の如く無辺の限際にまで拡がるもの

以上無上正覚への願いについて、さまざまな角度から述べた後に、「願はその実現自体とほとんど等しい、願が十分に強く惹き起こされた時、仏教徒の行くべき道は自ずからさだまる」と大拙は念を押すのである。

次いで、弥勒菩薩による菩提心についての講説を述べた後、菩提心の要義について説明する。多岐にわたるが、そのうちいくつか取り出して紹介する。
・菩提心は大慈悲心から生ずる。大慈悲心は、もしそれがなかったら、仏教そのものがまた全くないものになる程の大事なものである。このように大慈悲心を強調するのが大乗仏教の特色で、大乗仏教の全景の展開はこの大慈悲心を枢軸として廻転するものといえよう。
・仏教は個々人の経験であって、人を離れた哲学ではないということである。
・菩提心を起すというのは、ただの一日の中に成就せられるような種類の事柄ではない。それは実に一生だけではなく、世々生々の長い間にわたる準備を必要とする。この準備がすなわち善根積集である。
・菩提心は魔王の攻撃の全く及ばぬ彼方にあるものである。仏教で魔王というのは二元性の原理である。
・菩提心の観念は大乗経が小乗経とは全然異なったものだということを示す標識の一つである。小乗は一切衆生の心の奥深いところにおいて培養せらるる霊の萌芽の成長すなわち菩提心の発揮を妨げるものである。

以上を踏まえて大拙は、「約言すると、菩提心は愛以上である。菩提心には哲学的徹見がある。それは大智と大悲とが一つに溶け合って具体化したものである。菩提心においてはじめて大智も大悲も実際にその用をあらわすことになる」と結んでいる。







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