加藤周一の石田梅岩論

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石田梅岩は心学の創始者として、徳川時代の後半以降日本人のものの考え方に大きな影響を与えた。その石田梅岩に加藤周一は非常なこだわりをもったようだ。加藤が梅岩を評価するのは、梅岩が町人の出身であり、町人の視点から日本社会を見たという点である。徳川時代の知的世界をリードしたのは武士階級であり、武士のエートスというべきものが、日本人のものの考え方を大きく規定していた。梅岩はそこに、町人的な視点を持ち込み、武士のみならずすべての階層の日本人に共通する世界観・人生観を打ち立てたというのが、加藤が梅岩を高く評価する理由である。

加藤は、その石田梅岩と富永仲基とは長い間の付き合いだったといっている。梅岩と仲基との間には、ともに町人出身ということ以外には、共通点はまったくないといってよいのだが、なぜか加藤はこの二人を並べて論じるのが好きなようだ。「富永仲基と石田梅岩」と題した著作はその典型的なものだ。

この著作は、前半で富永仲基を論じ、後半で石田梅岩を論じている。だが、先ほども言及したように、この二人には思想的なつながりがほとんど見られないので、まともな比較をする余地はなく、したがって、全くかかわりのない別の文章を並べたというにすぎない。うち富永に関するものは、かれの同時代人である安藤昌益との比較が目に付くくらいで、あまり興味をそそられるものはない。一方梅岩を論じた部分には、なかなか興味をそそられるものを感じさせられる。

加藤が梅岩を高く評価する理由は、梅岩が日本人のものの考え方に大きな影響を及ぼしたということであり、そのひな型になった彼自身のものの考え方が町人の立場を強く反映していたということである。それまでは、支配層である武士階級が日本の思想の担い手であり、したがって武士の考え方を色濃く盛り込んだ思想が日本の支配的な思想だった。武士以外の階層は、武士がおし抱いていた思想を、おこぼれ頂戴式に身に着けるか、あるいは思想とは縁のない生き方を選ぶほかはなかったのである。ところが梅岩が出るに及んで、町人の視点に立ったものの考え方が打ち出されるようになった。その考え方は、武士にもあてはまるような所があったので、町人にとどまらず武士の心もとらえるようになった。かくして梅岩の思想は、日本人全体をとらえるようになり、徳川時代の後半にあっては、アカデミズムの世界は別にして、日常の規範を支配するような勢いを持つようになった。梅岩によって日本人は、国民全体に共有されるような思想を獲得した、というのが加藤の基本的な見立てなのである。

梅岩の思想は、俗に心学といわれる。心学とは、今日的な意味での心に関する学問すなわち心理学のようなものではなく、ひととして心得るべき天地社会の理のようなものであった。天理とか人知といいかえてもよい。要するに人間として生きていく上に必要な手引きのようなものであり、したがってきわめて倫理的な色彩の強いものであった。今日でいうところの哲学とか思想とかいうよりも、道徳的な規範というべきものであった。その規範を梅岩はとりあえず町人に焦点をあてて論じた。具体的な内容は、倹約とか家業に精をだすことであった。そうした徳目は、町人のみならず、農民や職工また武士にも適用されるべきものなので、次第に他の階層にも広まっていき、ついには日本人全体に受け入れられていく。徳田時代の末期近くになると、梅岩の心学が日本人全体の思想的な基盤を作っていくのである。幕末から明治以降の日本で大流行した二宮尊徳の報徳思想も梅岩心学の一バリエーションといってよい。

梅岩心学は、武士を頂点とする徳川時代の身分秩序を批判しなかった。むしろ、そうした身分秩序を前提として、士農工商の各階層がそれぞれ分に応じた生き方をすべきだと説いた。そうした階層秩序のなかで、各身分は上下関係ではなく、予定調和的な関係に置かれた。武士には武士の、農民には農民の、町人には町人の、それぞれふさわしい役割があって、各階層が己の役割を忠実に努めることで、全体としての社会秩序がうまくいくと考えたのである。

こうした考えは、支配階層にとって非常に都合のよいものである。武士が上から押しつけずとも、町人が下から秩序を支えてくれるからである。こうした下からの秩序維持の動きは、草の根保守主義ともいうべきものを強化する。そういた保守主義は今日に至るまで、日本社会に根強く働いていた。梅岩はだから、日本的な保守主義の思想的な創始者といってよい。

じっさい、梅岩の思想は、倹約と家業のつとめのほかに、君への忠と親への孝を説いていた。それらは儒教的な徳目を町人向けにわかりやすく説いたものであるが、徳川の身分秩序を強化する方向に作用したことは間違いない。そういう思想は、本来支配層である武士の側から示されるのが筋であるが、それを町人の側から示したのが梅岩であった。心学者梅岩は、町人に向けての講義を道話とよんだ。道話とは加藤によれば、「支配層のイデオロギーの大衆的な表現である」。つまり「武士の思想が、町人出身の心学者を通じて、町人の言葉で表現されたのである」

こうした梅岩の姿勢について加藤は、身分秩序に埋没するあまり、社会を外側の超越的な視点からとらえることができなかったと見ている。その点では、超越的な視点から現状の克服を考えた富永仲基や安堵昌益とは根本的に異なっているというわけである。そうした秩序埋没型の姿勢は梅岩に限ったことではない。日本人全体に共通するもので、梅岩はそれを典型的に体現しただけだ。そのあたりを加藤は次のようにいっている。「内部と外部をするどく区別しながら、しかも、超越的第三者を媒介として、内外を統一的に捉えようとする解決法は、極端な例外を除いて(13世紀仏教)、日本にはあらわれなかった」






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