加藤周一の福沢諭吉論

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丸山真男が福沢諭吉の「文面論の概略」を注釈した本を岩波新書から出したのは1986年のことだ。それまでは比較的単純なイメージで見られていた福沢諭吉を、多面的に解明したものだった。それより以前、1978年の時点で、加藤周一が、福沢が日本の近代史にもった意義について、骨太な解説を加えている。「福沢諭吉と『文明論の概略』」と題した比較的短い文章だ。タイトルにあるように、「文明論の概略」を材料に使いながら福沢の思想の意義を述べている。その着眼点は、丸山に通じるものがあるので、加藤がこの小論を意識していたことは十分考えられる。じっさいこの二人は、対談本を出したりして、結構付き合いがあったようなのだ。

加藤は福沢の思想の独創性を「国内の民主主義の必要と対外的な国の独立の必要性とをむすびつけ」たことにあるとする。この二つは民権と国権と言い換えられるが、民権と国権の関係を福沢ほどはっきりと見通したものはなかった。しかしてその二つのうち福沢は、基本的には、民権のほうに比重を置いた。そうしたスタンスは「一身独立して一国独立す」という有名な言葉であらわされる。この言葉は、丸山真男も福沢の思想の中核をなすものとして評価している。

ところで、福沢が生きた時代は、日本にとって非常に厳しい環境にあった。西洋列強があわよくば日本を侵略・支配するおそれがあり、それを福沢を含めたほとんどの日本人が強く意識せざるを得なかった。そういうわけで、福沢もまた、文脈の相違に応じて、民権を強調したり、国権のほうを重視したりと、「柔軟な」姿勢を示した。当時の日本が置かれた特殊状況を前にしては、対外的な「独立」を当面の目的とせざるをえない。民権はその目的に対して従属的な扱いを受けることもある。

これは、現実主義者としての福沢の、いわばマヌーバー的な対応であって、福沢の本心はあくまで民権を基調としたものだったと加藤は見る。福沢といえども国権の重要性を認めたが、しかし、ほかの国権主義者のように、国権を至上目的視することはなかった。

こうした福沢のマヌーバー的な対応は、漱石にも見られたと加藤は言う。漱石は、「個人の生活に貫かれる道徳的原則が、国家権力の行動に貫かれることはないといい、したがって平時には国家が個人の生活に干渉すべきではない(原則的な一般論)と結論しながら、しかし戦時には国家の干渉が大きくなるのもやむをえない(実際的な特殊状況論)ことを認めた」。一方、内村鑑三は、戦時においても個人が国家の行動に貫かれるべきではないとして、絶対平和主義をとなえた。内村は極端な例外であって、当時の日本では、民権の重みはせいぜい、平時に限って意義を持つので、特殊状況においては骨抜きにされることはしょうがないという空気が支配していた。しょうがないどころか、いかなる状況でも国権が優先するという雰囲気のほうが強かったのである。

とはいえ、福沢についていえば、かれの個人主義は結構根強いものだったと加藤はいっている。福沢は、基本的には、個人の自由独立を「抜くべからざる価値」であると説いた。たとえ特殊状況においても、個人の自由独立が踏みにじられることは許されないと考えていた。そうした福沢の思想はどのようにして育まれたのか。

加藤は、福沢の思想を育むうえで、二つのことが大きく働いたとみている。一つはかれの出自である。かれの父親は九州中津藩の下級武士だった。強い身分制度のなかで、下級武士は出世の見込みなどなかった。そこで父親は息子の諭吉を坊主にしようと考えたという。坊主の世界でなら、俗界の身分にかかわらず一定の出世ができるだろうと思ったからだ。そういう身分秩序社会を福沢は「封建門閥は親の仇でござる」といった。それは裏返せば、人間の平等と自由独立の主張ということになる。福沢は西洋思想の影響を受けて自由独立を主張したのではない、自由独立の必要を体感していたからこそ、西洋思想に共鳴したというのである。

二つ目は、三度にわたる西洋旅行である。福沢は明治維新前に三度も海外にわたっている。それも、自分から進んで出かけていったのである。最初のアメリカ渡航は、派遣団代表の木村摂津守に直談判して、木村の家臣という身分で派遣団に加わった。その福沢と勝海舟の折があわなかったのは有名な話である。ともあれ、この三度の欧米旅行を通じて福沢は、国の独立の必要性を肌で感じ取った。その肌感覚が、国の独立を支えている個人の自由独立の重要性を痛感させたというわけである。福沢の強みは、そうした肌感覚にある。出自をめぐる肌感覚とあわせて、しっかりと身についた個人主義が福沢の行動を導いたと加藤はいいたいようなのである。

福沢の肌感覚は、一方では個人の自由独立の絶対的な優位を主張させるとともに、他方では、政治制度についての柔軟な見方をうながした。福沢は、絶対的な基準で政治の良しあしを論ずるようなことはしなかった。政治とは、理念によって動くものではなく、まして個人の意思によって動くものではない。政治を動かすのは、時代のもつ勢い、つまり時勢だというのである。それを言い換えると「特殊状況」ということになる。政治を含めた社会の変動は、時勢とか特殊状況というものに強く規定される。そうした認識があったからこそ、福沢は、一方では個人の自由独立を説きながら、場合によっては国権を優先させるような議論を展開したのでもあった、というのが加藤の福沢についての基本的な見立てのようである。






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