メルロ=ポンティ「行動の構造」を読む

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「行動の構造」は「知覚の現象学」ともどもメルロ=ポンティの学位論文を構成するものだ。かれが「行動の構造」を刊行したのは1942年のことだが、執筆脱稿したのは1938年のことで、「知覚の現象学」(1945年)より七年も前のことだ。そんなこともあって、これら二つの論文は、一対で学位論文を構成してはいるが、内容はかなり異なったニュアンスを感じさせる。「知覚の現象学と」比較して、「行動の構造」は実証科学の成果を大胆に取り入れている。一読して、科学論文を読まされているような印象を受ける。とりわけ神経生理学とか、心理学の最新成果を引用しているので、あたかもそれらの学説と運命を共有しているかの観を抱かされる。そこでメルロ=ポンティのこの著作は、かれの依拠した科学の成果が色あせれば、それと運命をともにするだろうという批判もあらわれたほどだ。

「行動の構造」の基本的な目的は、意識と自然との関係を理解することだ。従来の哲学は、実証科学もそうなのであるが、意識と自然とを二項対立関係にあるものとして理解してきた。二項対立のうち、意識を重視すれば観念論になるし、自然を重視すれば実在論になる。しかし、どちらの側にも真実を主張する理由はない。真実は、意識と自然とを、対立関係ではなく、相互依存的な関係において捉えることのうちにある。その相互依存的な関係をメルロ=ポンティは弁証法という言葉をつかって説明している。

どのようにして、二項対立を克服するのか。二項対立というのは、二つの項をそれぞれ実在的なものとみなし、その項が互いに自立しながら、相互に働きかけるという考え方をする。メルロ=ポンティは、まず、二つの項である意識と自然とを実在的なものとして考えるということをやめる。つまり実在論を否定することから始める。実在論の特徴は、実在する自然的なものが、意識に働きかけて様々な認識が成立すると考える。実在的なものが因果関係をつうじて、他方の項に働きかけるというわけである。実在論は、ふつう、自然が意識の原因になるとするが、中には、意識が自然の原因だ(意識が自然の生みの親である)とする考え方もある。それは唯心論と呼ばれる。サルトルの説はそうした唯心論の極端なものである。

それに対してメルロ=ポンティは、「行動の構造」においては、実在的な二項対立を厳しく批判する。その理由としてかれが持ち出すのは、自然という現象には、それ自体において、自律的で完結した根拠はないとする理屈である。われわれが自然なものと呼んでいる対象は、それ自体として自立したものではなく、意識の相関者であり、したがって意識によって構成されたものである。そうした考えは、カントの批判主義哲学を想起させる。じっさい、メルロ=ポンティはカントの批判哲学を高く評価し、素朴な実在論はカントの批判哲学によって克服されたといっているほどである。カントは、「物自体」の存在を棚上げしながら、現象と理性との関わり合いを解明したわけであるが、その場合、超越的な意識が世界についての認識を成立させるカギだと考えた。カントのいう超越的な意識とは、人間にアプリオリに備わっている能力のことで、カントはカテゴリーといった言葉を使って、その能力を説明している。そうしたカントの考えを踏まえながら、メルロ=ポンティはさらに先に進もうとする。カントのアプリオリは非常に抽象的なものであったが、メルロ=ポンティはそれを、間主観性によって基礎づけることで、現実味を帯びさせる。

とはいえ、自然をそれ自体においてではなく、意識との相関のうちに捉える視点は、意識中心主義のそしりをのがれまい。じっさいメルロ=ポンティは、自然を精神との相関関係のうちにしか認めない。そういう点では、サルトルほど極端ではないが、唯心論に近いものを感じさせる。唯心論は、心を実在的なものとみなしたうえで、自然をその心によって根拠づけるというやり方をとる。メルロ=ポンティは心を実在するものとはみなさず、あくまでも機能的な概念としてとらえるので、素朴な唯心論とは異なるが、しかし世界を心によって基礎づけるという考えは、基本的に共有しているといえる。

だから、メルロ=ポンティの説は、基本的には、サルトルの唯心論と異なったものではないと言えるわけだが、サルトルと比較すると、かなり複雑な構成を感じさせる。サルトルにとって意識とは、「無」という言葉で意味させているように、かなり単純なものであった。無としての意識が世界が成立する舞台になるわけであるから、意識はそれ自体としては、容れものようなもので、それ自体として積極的な内容はもっていない。それに対してメルロ=ポンティの意識は、かなり積極的な内容がある。第一、それは心的な現象たるにとどまらない。身体と一体化したような意識である。身体と一体化した意識であるから、それは具体的な状況に応じて、対象たる自然を多面的に捉える。カントの意識には、対象は一気に与えられる。ところメルロ=ポンティの意識には身体に制約されたかたちでしか対象は現れない。カントも、またベルグソンでさえも、意識の直接与件としての知覚は豊かな内容を持っていると前提されているが、メルロ=ポンティの意識にとって、直接与件としての知覚は、当初はまずしい内容しか含んでいない。それをメルロ=ポンティは「パースペクティヴ」と呼び、その一面的な性格を意識が身体と結びついていることに求める。身体のとっている偶然の姿勢が、そのときの知覚の内容を制約するのである。

そういうわけで、メルロ=ポンティの知覚論は、意識の直接与件としての一次的な知覚から出発する点では、フッサールをはじめ、ベルグソンも含めた、現象一元論と共通する基盤のうえに立っているといえるのだが、ベルグソンらが一次的な知覚をもっとも根源的で包括的なものだと前提するのに対して、メルロ=ポンティは、一次的な知覚の内容は貧しいものであって、それを豊かなものにするのは、意識の働きだとするのである。その場合、意識の対象をとらえる働きが、構造という概念を駆使して解明される。構造とは、意識が対象をとらえるときに、対象への人間のかかわり方を規定するものとして提示されてるのである。





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