鈴木大拙「禅」:禅入門

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ちくま文庫から出ている「禅」は、鈴木大拙が英文で書いた文章を工藤澄子が日本語に翻訳したものだ。序文にあたる第一章の短い文章が1963年に書かれたほか、本体をなす第二章以下の文章は1954年から1956年にかけて書かれた。それらの文章を一冊にまとめる際の選択については、大拙自身の意向も働いていたようである。

大拙はこれらの文章を、欧米人向けに書いた。欧米人に禅の何たるかを理解してほしと思い、わかりやすく書いた。いわば欧米向けの禅の入門書のようなものである。そうした趣旨の書物としては、1935年に刊行した「禅堂生活」がある。「禅堂生活」のほうは、禅の実践を中心にして、禅の何たるかを語ったものであり、実践的な意味合いが込められていたが、この「禅」という書物は、理論的な色彩が強い。そういう点では、こちらのほうが入門書としてふさわしといえる。

大拙が「禅堂生活」を書いたとき、日本には大国意識が充満していた。台湾や朝鮮を植民地とし、満州を支配下におさめ、中国大陸に大勢力圏を築こうとする勢いを前にして、日本人は東洋のリーダーとしての自覚を高め、欧米列強に対等に向かわんとする意欲を隠さなかった。そうした時代の空気が、大拙の「禅堂生活」にも感じられる。大拙はその書を、日本及び日本人の精神的な優位を主張するものとして書いたフシがある。その書には、禅を通じて、東洋及びその盟主としての日本へのゆるぎない自信がうかがわれる。

それに対してこの「禅」は、戦後の混乱が収まらぬ時期に書かれたという事情もあって、かなり謙虚な姿勢で書かれている。大拙は、日本の敗戦の理由を正面切って指摘してはいないが、しかし日本が敗れたのは、自分の力を過信したからだというようなことは言っている。力ではなく、愛こそが、個人としての人間のみならず、全体としての人間社会にとって肝心なことだというのである。そして禅は、仏教の一流派として、愛に基礎を置くのだともいっている。仏教用語では、それは慈悲というのであるが、欧米人に向けて書かれたこの書の中の文章においては、わかりやすい「愛」という言葉を使っているのである。

禅は仏教の一流派といったが、仏教すべてに共通するのは、さとりを目的とすることだと大拙はいう。さとりというのは、とりあえずは、仏陀が得たさとりの境地と同じことを体験することだとされるが、厳密にいうと、人間や世界の本性を体得することである。禅もまたそのさとりを得ることを目的とする。だが、その方法がほかの仏教流派とは異なっている。ほかの流派においては、経典を読むことを重視したり、戒律を守ることを重視したり、超越神に帰依することを重視したりするが、禅とくに臨済禅は、禅定すなわち精神的な修行を重視する。禅とは、修行を通じて悟りを得るという意味なのである。

そこで、さとりの内実はいかなるものか、ということが問題になる。ところが、ここで大きな問題が浮かび上がる。さとりは、言葉では表現できないのだ。だから、自分の得たさとりの境地は、他人に伝達不可能なものであり、あくまでも自分の内密な体験たるにとどまる。

禅には、日蓮宗の「四箇格言」に相当する四つの声明があると大拙はいう。教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏である。これらはいづれもさとりの個人的な性格をさす言葉だが、とりわけ不立文字、直指人心は、さとりが言葉では伝えられず、直接心で体得すべきことを意味する。言葉で伝達できないということは、論理が役にたたないということだ。禅の言葉は矛盾に満ちているとよくいわれるが、それは禅が論理にこだわらないからである。

大拙はいう。「禅に何か論理的に筋の通った、知的に明らかなものを与えてくれることを期待するならば、われわれは全く禅の意義を見誤ってしまう。はじめに、自分は、禅は事実を扱うものであって、一般論を云々するものではないと言ったはずである」

つまり、禅は言葉を通じて論理的に説明できるようなものではなく、あくまでも個人的な体験に根差すものである。その体験は、自分と同じようにさとりを得たものにしかわからない。だが、さとりを得た者同士ならば、ちょっとした行為や言葉をきっかけとして分かり合うことができる。臨済宗の公案などは、その最良のきっかけを与えてくれるものだ。公案というのは、さとりの境地を言葉で語ったものであり、表向きには非論理的でナンセンスに見えるが、さとりを得たもの同士の間では、直覚的に理解しあえるものなのである。

大拙が、論理の問題ではなく事実の問題だというのは、禅の体験は言葉では伝えられず、あくまでも直感的な体験だということを強調しているのである。それゆえ禅は、直感を中核とした体験という事実に根差すのであり、言葉によって論理的に説明できるようなものではない、ということになる。だから禅者は、極端なケースとして、もし死を理解したければ、まづ自分で死んでみろというようなことを平気でいうのである。死んでみなければ、死ぬことの意味を体験することはできないというわけである。





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