加藤周一の森鴎外論

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加藤周一は石川淳にならって鴎外晩年の史伝三部作を鴎外最高の傑作たるのみならず、おそらく明治・大正の文学の最高の傑作ととらえている。加藤はなぜそう考えるのか、その理由を示したのが、「鴎外と『史伝』の意味」と題した比較的短い文章である。加藤はこの文章によって、鴎外の史伝三部作がなぜ傑作であるのか、その理由を形式と内容の両面から分析的に明らかにしようと思った、といっている。

形式的に見れば、この三部作は普通の意味での小説ではない。かといって伝記にとどまるものでもない。伝記はモチーフとなる人物像を明瞭に示すことを目的としているが、この三部作には、鴎外の分身である「私」が登場して、その私がいかにして、これら伝記上の人物たちとかかわったのか、ということが書かれているからである。モチーフの人物像をありのままに描くのではなく、その人物への私の思いを吐露している。これは広い意味での小説のやり方であって、伝記にとどまるものではない、というのである。しかもこの三部作は、鴎外の本音が非常に屈折した形で現れており、そこに現れた鴎外の人間としての生き方が、近代の日本人のある種の典型を表している。そうした典型性に、加藤は高い評価を与えているのである。

そこで、モチーフの人物像に対する鴎外の屈折した感情が、これら三部作の内容をなすということになる。その屈折した感情を加藤は次のように表現している。鴎外には中途半端なところがあり、それが彼の妥協的な生き方につながった、ところがモチーフになった三人は、いづれも人生の決定的な局面で妥協なき決断を行った。そこに鴎外は自分には欠けているものを見出して深い感慨を覚えた。これら三人の人物の跡をたどることは鴎外にとって、「ほとんどみずからの『生きえたかもしれない人生』の跡をたどることに、ほかならなかった」というのである。

鴎外にとっての、その「生きえたかもしれない人生」とはいかなるものだったか。一つ例を挙げれば、配偶者の選択にかかわることである。鴎外はベルリン滞在中に一ドイツ夫人と恋に陥った。その経緯を彼自身、小説「舞姫」に書いたばかりか、その女性が鴎外を追いかけて日本までやってきたということもあった。ところが鴎外は、家族の反対に屈してその女性を受け入れることを拒絶し、母親が用意した結婚を受け入れた。その妻とは一年ばかりで離婚している。また、鴎外は中年になって再婚したが、その女性をも深く愛せなかった。鴎外は渋江抽斎の妻五百に強く感情移入した書き方をしているが、その五百のような女を自分自身手に入れることができなかったのである。

これはおそらく鴎外の優柔不断で妥協的な性格のせいであろう。鴎外は科学者としては徹底した姿勢(実証主義にたちいかなる外的権威もみとめない)を貫いたが、生活の上では非常に妥協的であった。その妥協性は、独特の保守主義の形をとった。宗教を信じはしないがしかしその社会的有用性はみとめるだとか、日本の伝統的な風俗を尊重する態度といったものに鴎外の保守主義が現れている。そうした保守主義は、鴎外が国家官僚だったことと無縁ではないだろう。鴎外は体制の内部に生きる人間であって、体制の外部から体制を批判するということは全くと言ってよいほど思い浮かばなかった。それゆえ幸徳事件にさいしては、冷淡な反応をしめした。それに対して体制から排除された啄木などは、幸徳にも一分の理があるのではないかといい、また、漱石も日本の政治権力にたいして批判的な態度をとった。

史伝三部作を頂点とする鴎外晩年の歴史小説群を読んで、小生はかつて次のように書いたことがある。これらの歴史小説は乃木将軍の殉死に触発される形で書き始めたものであったが、当初は、取り上げた人物たちの「男の意地」に焦点をあてていた。それが女を含めた人間の意地に拡大され、やがては、意地から愛へと関心が転化していった、と。この見方によれば、史伝三部作には、男の意地は無論、女の意地も書かれているし、人間としての尊い愛の感情も書かれているということになる。渋江抽斎の妻五百は人間としての意地と人間への愛が深く結びついた、鴎外の理想的な人間像だったことになる。

そんなふうに見ると、鴎外の生涯をかけた文業は、五百という女性像の創造ということに結実したといえるのではないか。五百には鴎外の母親のイメージが投影されているという指摘があるが、ことはそう単純なものではないだろう。鴎外の母親は、いまでいう教育ママに似て、息子を溺愛するあまり、やや息子の性格を損なったといえなくもない。その母親に鴎外が強く執着していたことは間違いないにしても、それは感情的な次元のことであって、母親をあらゆる意味での模範とは思えなかったのではないか。それに対して五百という女性像の中には、鴎外として考えられる限りの美点が集約されているのである。

これは余談だが、史伝三部作の主人公たちはいづれも医者である。鴎外もまた医者のはしくれとして、これらの医者たちに、医者としての生き方の典型を見たかったとは、十分な根拠をもっていえる。






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