レールモントフ「現代の英雄」を読む

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「現代の英雄」は、レールモントフ唯一の本格的小説である。かれがこの小説を出版したのは1840年2月、二十五歳のとき。翌1841年7月、決闘の結果満二十六歳で死んでいるから、これはかれにとって最初の本格的な小説であったばかりでなく、最後の小説でもあったわけだ。若いレールモントフは非常に軽はずみなところがあったようで、この小説が完成する直前にも決闘をしている。その際には肘にかすり傷をおったくらいですんだが、二度目の決闘のときには、受けた弾丸が致命傷になった。

この小説の中でも、決闘が描かれている。その決闘では、主人公のペチョーリンが相手を即死させることになっている。かくも決闘にこだわった作家は、西洋文学には見られない。だがロシアでは、レールモントフの先輩格のプーシキンがやはり決闘で死んでおり、決闘は当時のロシア人にとっては、異常なことではなかったようである。

ペチョーリンという名の、ロシアの地主貴族層出身の軍人の生き方がテーマである。その生き方をストレートに描くのではなく、かなり手の込んだ構成になっている。語り手は、主人公のペチョーリンとは何らのつながりもなく、旅の途中たまたま知り合った男からペチョーリンの噂話を聞いたという形になっているのだ。それに加えて、ペチョーリン自身の日記が披露される。それらを通して、ペチョーリンの人間像が浮かび上がってくるように工夫されているのである。

この小説の主な内容は、ペチョーリンと二人の女性との恋である。一人目の女性はベーラといって、コーカサスの土人の娘であるが、その娘にペチョーリンは一目ぼれする。だがかれの愛は素直には受け入れられない。そこで手練手管を弄して彼女の愛を得ようとし、その努力は功を奏するのだが、娘のほうは、横恋慕していた別の男によって殺されてしまうのである。そのことについてペチョーリンは強く心を痛めることはない。むしろ、熱の冷めかかっていた恋の相手がいなくなってセイセイしたといった風情なのである。

二人目の女性とのことは、彼自身の日記に詳しく書かれている。メリーというその女性は、自分のほうからペチョーリンに近づいてくるのだが、ペチョーリンのほうは彼女を愛する気にはなれない。ペチョーリンが関心をもっているのは、昔なじみのヴェーラという女性なのだ。メリーには、ほかに彼女を愛する男がいて、その男とペチョーリンとが決闘する羽目になる。その結果ペチョーリンは男を銃殺するのである。

これらの出来事が、コーカサスを舞台に展開する。当時のロシアでは、コーカサスが戦術的な要地になっていたらしく、ロシア軍が常駐していた。ペチョーリンはじめ、その常駐ロシア軍の将校たちが、この小説の主な登場人物になっているのである。

小説の醍醐味は、ロシア軍の中核を占める貴族層出身の将校たちの世界観であり、また、ペチョーリンに体現された当時のロシア知識人の考え方といったものにある。とりわけペチョーリンの考え方は、非常に厭世的な色彩を帯びているのであるが、それは当時のロシアの知識人が置かれていた閉塞的な雰囲気に発しているというふうに受け取れる。1825年にデカブリストが弾圧されて以来、ロシアは反動の時代にはいっていた。そうした時代状況のなかで、ペチョーリンのような知識人は、前途に希望を持つことができず、いきおい虚無的な振る舞いに及ぶ傾向を強くもっていた。この小説の中のペチョーリンの振る舞いは、虚無的というほかはないのである。

こんな具合に、この小説はペチョーリンの生き方を中心に展開しているといった印象が強いのだが、じっさい、構成のうえでも、小説の大半はペチョーリンの日記という形をとっているのである。そのため、小説全体の語り手は、非常に中途半端な役割を果たしているに過ぎない。一人目の女性ベーラをめぐる話にしても、語り手が旅の途中知り合った男から聞いたということになっているのである。その旅の男がなぜ重要な役割を担っているのか、納得できる理由はなさそうである。そんなわけでこの小説は、かなり手の込んだ構成を採用しながら、なぜそんな構成に意味があるのか、納得できる理由は見当たらない。

小説の最後に「運命論者」と題した短い一節が置かれているが、それはペチョーリンの考え方をあらわしているとともに、当時のロシアの知識人が抱いていた、閉塞的な感情をも物語っているようにみえる。





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