加藤周一の永井荷風論その二

| コメント(0)
加藤周一には、かなり長文の本格的な永井荷風論がある。「物と人間と社会」と題したもので、荷風の死後間もない頃に書いた。荷風の生き方とその小説世界とを関連づけて論じたものだ。タイトルの一部に「物」という言葉が入っているのは、荷風の生き方をその言葉で表したからだ。荷風は世間を、あたかも物を見るように傍観者的に見ていた、というのだ。その傍観者的な生き方は、荷風の作品のなかにも反映されている。荷風は生涯女を描き続けたが、荷風の小説に出てくる女たちは、恋愛の対象ではなく、愛玩すべき「物」として描かれている。

加藤は、その前に、「荷風覚書」と題する短い荷風論を書いている。これは1958年に筑摩書房から出た「現代日本文学全集『永井荷風(二)』」の解説として書いたものだ。その主たる目的は、収録作品の解説ということなので、荷風の作風全般を体系的に論じるという形にはなっていない。また、短い文章なので、作品の解説としてもあっさりしている。荷風の作品を味わうときの心がけのようなものには触れている。それは荷風の西洋趣味と、それとは肌合いの異なる江戸文化趣味とに留意しながら読めというものだった。

それにしても、「荷風覚書」は、荷風生存中に書かれたものだ。荷風の生存中には、「断腸亭日乗」はまだ出版されていない。その一部が「罹災日録」という形で紹介されていたにすぎない。だが、加藤はその「罹災日録」が、内容はともかく、文体のうえで高い完成度を示していることに注目している。加藤がこの小文で、荷風について何か気のきいたことを書いたとすれば、荷風の文体の美しさを指摘したことである。

加藤は、日本語が言語として、あるいは小説を書く言葉として、完成されていないと考えていた。日本には、日本人として自国語で文章を書くことについて、高いレベルでの、標準的なスタイルが確立されていない。「日本語の現代文には、句読点の定まった規則さえもない」というのである。そうなった事情はいろいろあるだろうが、日本には言語を標準化するうえで決定的な役割を果たした文学者がいないからだろう。ドイツ語はルターの聖書が、英語はシェイクスピアが、ロシア語ではプーシキンが、それぞれ母国語の標準的な文体を確立するについて決定的な役割を果たしたが、日本にはそういう人物が出なかった。それで作家ごとに勝手な文体で書くようになった。それゆえ、日本文学においては、作家同士の文体の良しあしを比較することはできない。できるのは、一人の文学者の文体の変遷を分析することくらいである。

荷風の文体の変遷において転機となるのは「日和下駄」だと加藤はいう。これは「すでに名文であり、今もただそのために読んで愉しむことのできるものだ」とまでいっている。荷風の文章には、それ自体に読む楽しみがあるというのである。その名文はおそらく、小説ではなく、エッセー風の文章で威力を発したといえる。荷風の文章上の達成の頂点は、日記「断腸亭日乗」である。加藤はその全部を読んだわけではないが、敗戦の年の日記「罹災日録」は読んでいる。その日記の文章に加藤は、荷風の文体の魅力を感じるとともに、荷風の生き方における哲学的なものにも注目している。

それを単純化していうと、世相に対して距離をとるということである。日本中が戦争気分で浮かれているときに、荷風は冷めた眼で見ることができた。その結果、世相について、皮肉な感慨を抱き、それを批判的な言葉で評することもできた。そういう姿勢が小説に反映されると、「一種のあきらめ、一種の自嘲、一種のニヒリズム」という形をとってあらわれる。

ということは、加藤は荷風の生き方と小説世界とは矛盾なくつながりあっていると考えていたのであろう。そうした視点は、数年先に書いた「物と人間と社会」においても生かされている。何事に対しても距離を置き、あたかも物を見るように見るという視点である。

ともあれ、以上からは、加藤が荷風を好きだったというふうに伝わってこないでもないが、かれが本音では荷風を嫌っていたらしいことは、「物と人間と社会」を次のように書き出していることからわかる。曰く、「好色で鄙吝な八一歳の老人が、誰に残すのでもない金をためたままうす汚い場末の一部屋で死んだ」。これは荷風の人格を侮蔑するような言い方である。






コメントする

アーカイブ