メルロ=ポンティのベルグソン批判:行動の構造

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ベルグソンの哲学は、大きくいって二つの要素からなっている。現象一元論的な要素と、生命の哲学と称されるような要素である。後者は、エラン・ヴィタールといった生気論的な概念を駆使して説明される。この二つの要素のうち、第一の現象一元論的なものは、ベルグソンがそもそも出発点において提示していたものであり、第二の生気論的な要素は、後期になって本格的に展開される。「創造的進化」はその大成といってよい。

メルロ=ポンティは、ベルグソン哲学の以上二つの要素のいづれをも批判している。まず、第一の現象一元論的要素への批判。ベルグソンはそもそも、意識の直接与件から出発し、そこに定位しながら思索を展開していく点では、フッサールの現象学と軌を一にしているといってよい。フッサールの現象学は、カント復興の流れの中から出てきたものだ。19世紀末に新カント派が興隆し、カントの経験論が見直されるのだが、そのカントの経験論を徹底することから、現象を重視するようになり、それがさらに進んで、現象一元論というようなものができた。その風潮が、ヨーロッパ大陸の哲学界を席巻したわけだが、ベルグソンの「意識の直接与件」についての哲学的思想も、そうした流れの中にあったわけである。メルロ=ポンティもまた、現象学的な姿勢をとっている点では、意識の直接与件としての知覚を重視するものであり、その点ではベルグソンと共通する立場に立っているように思われるのだが、じっさいには、メルロ=ポンティはベルグソンの「意識の直接与件」の考えに異を唱えるのである。

ベルグソンの「意識の直接与件」についてのメルロ=ポンティの批判は、その観想的性格をめぐってのものである。ベルグソンのいう「意識の直接与件」としての「純粋知覚」は、人間の理性的認識の材料として、対象的なものであり、また、観想的なものであった。要するに意識の対象とは、「見られるもの」なのである。対象を「見られるもの」としてとらえるそうしたベルグソンの考えを、メルロ=ポンティは「観想的」だといって批判するわけである。

メルロ=ポンティは、人間の意識のはたらきを観想的なものとは見ないで、行動的なものとして見る。人間の意識のはたらきは、環境に応じたふさわしい行動をするための準備行為のようなものとして捉えられている。したがってそれは、単に受動的に対象に接するのではなく、ふさわしい行動を目的として、能動的に対象とかかわりあう。だから意識とは行動の一部をなしているわけである。行動であるから、それは能動的であり、また、つねに具体的なものを目指しているから志向的であるともいわれる。そうした行動的な性格が、ベルグソンの意識にはない。ベルグソンの意識は、世界の中での人間の行動ではなく、世界の理解にとどまっている。そういってメルロ=ポンティはベルグソンを批判するのである。

ベルグソン哲学の第二の要素「エラン・ヴィタール」については、メルロ=ポンティはそれを「生気論」だといって批判している。生気論とは、自然や人間や社会を、特殊な生命活動の所産として説明するものである。アニミズムはそのもっとも原始的なものだが、スピノザのようなすぐれた知性でも、世界を神の活動の現れとする点では生気論に含めてよい。ただ高級な見かけをとっているだけのことである。

メルロ=ポンティが「エラン・ヴィタール」説を生気論だというのは、人間を含めて世界すべての活動の歴史を、「エラン・ヴィタール」という精神的な原理によって説明するからである。そういう説明の仕方は、荒唐無稽で、魔術の如きものだとメルロ=ポンティはいう。こうしたことになるのは、ものごとを実在の次元でとらえるからだ。実在の次元でとらえれば、世界を動かしている原理が実在しているという考えがなりたち、その実在する原理を「精神的原理」として提示することになる。だが、メルロ=ポンティのように、実在論を否定する立場からは、そうした「精神的原理」といったようなものは受け入れられないということだろう。

ベルグソンが「エラン・ヴィタール」というような精神的原理を持ち出すようになったのは、かれが「意識の直接的」与件としての現象に徹底的に定位することをやめて、実在という安易な概念を便利に使ったからだとメルロ=ポンティは考えているようである。自分のように、あくまでも現象の範囲にとどまり続けていれば、問題なのは存在ではなく意味なのだとわかるはずだ、そのようにメルロ=ポンティは考え、ベルグソンの思想のもつ不徹底さに不満を表しているようである。

意味というのは、人間が世界とかかわる中で、そのかかわり方を方向付けるものだ。それはあくまでも、機能的な性格のものである。だから、あえて存在を持ち出さず、それを棚上げしたうえで、世界の意味を把握するというのが、人間にとって、本当に人間的な仕方なのである。人間は人間的な意味にしたがって行動すればよいのであり、神とか客観的精神とか、超越的な原理を持ち出さずともよい。それがメルロ=ポンティの基本的なスタンスである。






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