ムツィリ:レールモントフの叙事詩

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レールモントフの叙事詩「ムツィリ」は1839年に書かれた。「現代の英雄」を執筆する以前のことであり、レールモントフにとっては最初の本格的文学作品である。プーシキンの死を悼んだ「詩人の死」以来、レールモントフの文学上の傾向は、同時代のロシアを強烈に批判しながら、そこに生きる若者の苦悩とか怒りをテーマにしたものだったが、この「ムツィリ」はそうした傾向を強く感じさせる作品だといえよう。

この叙事詩の基本的な構成は、グルジアの修道院に育てられた少年が、死の床で自分の体験を語るというかたちをとっていることである。導入部として、かれの生い立ちとか、修道院で育てられるにいたった経緯及び、その修道院から脱出して山野を彷徨したことなどが語られる。そのうえで少年は、自分がなぜ修道院を脱出し、山野を彷徨したのか、その動機について触れるのである。それを一言でいえば、自由への希求ということになろう。つまりレールモントフは、グルジアの修道院をロシアの圧政的な牢獄と位置づけ、そこから脱出して自由を求める少年を描いたといえるのではないか。

レールモントフはなぜロシアではなく、グルジアを舞台に選んだのか。おそらく検閲を考慮したのだと思う。ロシアを真正面から牢獄のようなものとして描くことは、当時のロシアでは許されなかった。そこでレールモントフは、グルジアをロシアの代替品として使うことで、検閲の目を逃れようと思ったのではないか。「現代の英雄」の舞台も、コーカサスの辺境ということになっており、登場人物にはアジア人など非ロシア人が多く登場している。そこにも、ロシアの官憲の検閲を意識したことがうかがわれる。

ともあれ少年は、修道院を抜け出た後、三日の間山野を彷徨し、渓流の水の中に沈んでいたところを、修道院の人々に助けられた。そこで自分を助けた修道院の僧侶たちに、彷徨の三日間における体験を語るのである。その前に少年は、助けられたことを喜んではいないと告げる。死んだほうがましだったというのだ。その理由は、修道院は牢獄のようなものであり、真の意味で生きているとは言えない。その牢獄が、ロシアをさすことは明らかだろう。

ところが、彷徨の三日間は、自分にとっては生きているという実感をもたらしてくれるものだった。「この三日の幸福な日々がなかったなら、わたしの一生は、あなたの力のない老いの身よりも、もっとみじめな、暗いものだったでしょう」(金子幸彦訳)と少年は言うのだ。そして「われわれがこの世に生まれてくるのは自由を楽しむためなのか、それともひとやを忍ぶためなのかを、知りたいと思っていました」といって、何よりも自由こそが人間が生きるにあたいする価値なのだと主張するのである。そんなわけでこの叙事詩は、グルジアの少年に託しながら、同時代のロシアを強烈に批判したものなのである。

三日間に少年が体験したのは、主に三つのことである。一つ目は、水汲みの仕事に従事するグルジアの乙女を垣間見たこと、二つ目は、豹と格闘したこと、三つ目は、一匹の蛇が砂の上で遊び戯れるさまを眺めたことである。その蛇を見たすぐあと、少年は小川の水底に横たわるのである。

これら三つのことがらが、何を寓意しているのかは明らかではない。乙女の姿は、少年らしい異性への関心を象徴するものなのかもしれない。豹との格闘は、権威との戦いを寓意しているのかもしれない。少年は深く傷つきながらその闘いに勝ったということになっている。それらに対して蛇がなにを寓意しているのかは、よくわからない。その蛇は少年に危害をあたえることはないから、おそらく少年にとってプラスになるものを暗示しているのであろう。蛇がとぐろをまいて遊ぶ姿は、自由のイメージをあらわしているのかもしれない。

三日後に見つけ出された少年は、そのことを喜ばない。かれは自分の死が近いことを自覚しており、そのことを受け入れている。この世に未練はないのである。かれは次のように遺言する。修道院の園にある白いアカシアの花咲くところに埋葬してほしい、そうすれば、そこからカフカスの山なみが見え、カフカスはその高みから、わかれのあいさつをわたしに送ってくれるでしょう」というのだ。

こういう具合にこの叙事詩は、グルジアの修道院に仮託しながら、ロシア社会の監獄のように息苦しいあり方に抗議し、それに比べれば、死でさえも望ましく感じられるといっているのである。こんなに激しい祖国批判は、19世紀のロシアでなければ生じなかったであろう。





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