鈴木大拙「無心ということ」を読む

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鈴木大拙の著作「無心ということ」は、昭和十四年に行った講演をもとにしている。この講演は、浄土真宗の関係者を相手にしたものだった。大拙は、大正十年以後長らく真宗大谷大学の教授を務めており、職業柄ということでもなかろうが、真宗にも大きな関心を寄せていた。大拙は、真宗にも禅の境地と同じようなものがあることに思い至り、禅と真宗とのあいだに架け橋を設けたいと思った。その架け橋を大拙は「無心ということ」に求めた。この講演は、「無心ということ」をカギとして、禅と真宗とを同じ土俵で論じることをめざしたものなのである。

大拙の著作活動を俯瞰すると、前半は禅をもっぱら論じ、後半で禅と浄土宗とくに真宗とを並べて論じるようになる。「無心ということ」はその転機を画すものである。禅については、昭和十三年に「禅と日本文化」を出し、禅についての大拙の考えを一応集大成していた。そこで、対象を浄土宗にも広げて、禅と浄土を比較しながら論じるようになった。その最初のものが「無心ということ」だと言えるのである。この本の刊行後、「浄土系思想論」(昭和十七年)で浄土宗の思想を中心に論じたうえで、昭和十九年には、大拙の宗教思想の到達点というべき「日本的霊性」を刊行している。これらの業績が、六十歳代末から七十歳代にかけてのことであり、しかも太平洋戦争のさなかであったことに、ある種の感銘を受けざるをえない。

無心とは、禅者が好んで使う言葉である。色々な解釈があるが、要するに自我を捨てることだと大拙は言っている。自我があるから我執が生じ、それが煩悩の原因となる。だから自我を捨てなければ煩悩もなくならない。仏教の根本的な意義は、一切の煩悩から解放されて、涅槃の境地に遊ぶこととされるから、煩悩の原因たる自我を捨てねばならない。その自我を捨てるということを無心というのである。

浄土系の人は、無心という言葉を使わない。そのかわりに「計らいをもたぬ」という。「計らいをもたぬ」とは、すべてを阿弥陀の誓いにまかせて、自分ではなにも計らわぬという意味である。自力ではなく他力によって生きていくということである。つまり自分を持たぬというのと同じである。だから、禅者のいう無心と同じようなものと考えてよい。禅と浄土宗はそれぞれ自力と他力の典型ということで、全く正反対のように見えるが、実はどちらも無心ないしそれと同じような境地をめざしている点で、相通じるものがあると大拙は考えるのである。

無心は自我を捨てることであるが、逆に言えば、なんでも受け容れることができるということである。我があると、それがさわりになって外物を拒絶する働きが生じる。我を捨てると、すべてのものをスムーズに受け入れ、包容することができる。この包容ということが大事だと大拙は考える。すべてに対して開かれており、なんでも包容できてこそ、さとりの境地へいたることができる。さとりの境地とは、俗にいえば、とらわれのないことである。とらわれのないということは、すべてのものを、それ自体として素直に受け入れるということである。そうした境地を無心というのである。

その無心の境地を大拙は、禅者については「独座大雄峰」という言葉で表現し、真宗については「自然法爾」という言葉で表現する。どちらも我を捨てて無心となった状態をいう。その境地を禅者はさとりとか涅槃とかいい、真宗は極楽とか浄土とかいう。興味深いのは、禅も真宗も、そうした境地を、あの世に設定するのではなく、この世に設定していることだ。真宗のいう極楽は、とりあえずは死後の世界だと説かれるが、よくよく見れば、それは現世において成立するものと考えられる。人は生きながらにして往生すると考えられているのである。一方、禅のほうでも、涅槃は現世を離れたものではない。禅においても、人は生きながらにして悟りをひらき涅槃に遊ぶのだと考えられている。

こんなわけで、禅と真宗とは、かなり似通ったところがあるというのが大拙の考えである。従来自力と他力で正反対とされていた禅と真宗とを、無心という言葉を介してつなげようというのである。

禅と真宗との類縁性を、大拙は道元の言葉を引用しながら解説する。道元のその言葉は「正法眼蔵」の「生死の巻」にある。すなわち、次の如し。「此生死は即ち仏のおいのちなり、これを厭い棄てんとすれば、即ち仏のおいのちを失わんとするなり、これに留りて生死に着すれば、これも仏のおいのちを失うなり。仏の有様を留むるなり。厭うことなく、憂うことなき、是時始めて仏のこころに入る。ただし心を以て計ることなかれ。言葉を以て言うことなかれ。ただ吾身をも心をも、放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたよりおこなわれて、これに従いもて行くとき、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」

これは仏にすべてをあずけて、みずからは何の計らいもせずということを言っているわけで、その点では、真宗の他力本願と異なることろはないと大拙は考えるわけである。





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