賈樟柯の映画「山河ノスタルジア」:中国経済発展のゆがみ

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賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の2015年の映画「山河ノスタルジア(山河故人)」は、経済発展の過渡期における中国庶民の命運のようなものをテーマにした作品。改革開放後の経済発展は、地域相互の格差のほか、発展のプロセスにうまく乗ったいわゆる勝ち組と、乗り損なった負け組との分断をももたらした。勝ち組の中でも、申し分のない成功を満喫した連中と、物質的な成功のかわりに精神的な価値を失ったものもいる。この映画に出てくる中国人には、そうしたさまざまなタイプの人間を指摘できる。伝統的な中国社会から、近代的な社会へと転換する過程の中で、中国人としてどのように生きるべきか、というような問題意識が込められている作品である。

1999年の中国が映画のスタートラインだ。改革開放が軌道に乗り、中国が爆発的な経済発展をとげていく転換点となった時期だ。舞台は山西省の都市汾陽、太原の南、黄河沿いに位置する古い町だ。中国の内陸部であって、まだ経済発展の恩恵には浴していないが、時代は変わりつつあるといった雰囲気は感じさせる。そんな場所にあって、発展にあずかり成長を目指す人間と、古い価値観に満足して進取の精神に欠けた人間もいる。進取の精神に富んだ人間は富にあずかり、欠けた人間は自分の始末もままならない。伝統的な中国社会においては、家族を中心とした相互扶助のシステムが機能していたが、近代化にともない個人は孤立を深め、自分で生きていく能力に乏しい人間は落ちこぼれざるをえないのだ。

この映画には、進取の精神に飛んだ男と、欠けた男が出てくる。それに一人の女がからんで、三角関係を形成する。その三角関係を解消して、女を自分のものにしたのは進取に富んだ男だった。しかし、経済的には勝利しても、人間として勝利するとは限らない。どんなに多額の金をもっていても、それで幸福まで買えるとは限らないのだ。

というわけで、女は夫と離婚し、一人息子の親権も失う。そこへ、昔の三角関係の片割れの男が舞い戻ってきて、援助を乞う。鉱山労働で呼吸器を毀損し、治療のために金がかかるのだ。女はその金を用立ててやるが、別にそれで恩を着せるわけではない。女は、一人息子のほうに気をとられているのだ。そんな折に女の父親が死んだので、葬式を理由に子どもを呼び寄せる。だが子供は自分になつかない。女は大きな失望を味わう。

時代は飛んで、その子どもが生長した2025年に移る。映画が作られた2015年を基準としても未来の話である。その未来において、一人息子は母国語を忘れ、英語しか話せない人間になっていた。その息子は、父親にも反抗する。中国の家族関係は、子どもを中心になりたっているようなので、子どもが親に反抗するというのは、家族が解体している証拠である。何しろ母国語で親子の対話ができない。父親は中国語しか話せず、息子は英語しか話せない。だから通訳を介してやり取りする始末なのである。近代化の道を踏み違えて、人間としての生き方から外れてしまったといったようなのである。つまり、この映画の中の人間は、金を追求するあまり、金以外の価値を失ってしまうというふうに描かれているわけである。

賈樟柯は変動期における中国人の生き方を一貫して描いてきたわけだが、この映画もそうしたかれの傾向にそった作品といえる。






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