賈樟柯の映画「帰れない二人」:中国の新しいタイプの女

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賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の2018年の映画「帰れない二人(江湖儿女)」は、現代の中国人女性の生き方を描いた作品。中国人女性の伝統的なイメージは、纏足に代表されるようなさまざまな束縛にしたがい、受動的にふるまう姿であったが、この映画に出てくる女性は、自立した女であり、男に従属するのではなく、男を従属させる。そんな女性が現代中国社会の主流なのかどうか、外国人の小生にはわからない。しかし、巨大な社会変動を経験しつつある現代中国において、そのような新しいタイプの女性が現れても不思議ではない。

舞台は、例によって山西省。省最北部の都市大同でやくざ稼業をする男と、その恋人の生き方がテーマである。やくざ者の男が、チンピラに囲まれて袋叩きにあう。殺されるかもしれないと恐れた女は、男からもらった拳銃でチンピラどもを威嚇する。それが銃器不法所持の罪に問われて、女は五年間服役する。刑を終えて娑婆に出てくると、自分がつくしたやくざ者は、他の女のヒモになっていた。自分が惚れたのは、こんなつまらない男だったのか。そう思うと女はやるせない気持ちになる。だが男にはもはや覇気はない。女に責められて、ただただいじけているばかりである。しかも自立できなくなった男は、女のヒモになりすます始末。そんな男でも、女はかわいいと思う。

誰が見てもばかげた設定に見えてしまうのだが、それは小生のような老人には、いまの中国人の気持ちがわからないからかもしれない。それにしても、こんなタイプの女は、日本にはいないのではないか。男につくす女は日本にもいるが、そういう女は、いわゆる女らしい女なのである。ところがこの映画に出てくる女は、男勝りのとげとげしさをもった女である。日本でとげとげしいタイプの女といえば、岩下志摩や富司純子演じる女やくざということになるが、彼女らは、男勝りを演じているだけで、じつは女らしい女なのである。ところがこの映画に出てくる女は、あまり女らしさを感じさせない。彼女は女としてよりもまず、一人の人間として振る舞っているのである。

この映画に見られる人間関係は、じつに冷淡である。すさんだ関係といってよい。中国人は義理にあついといわれるが、この映画の中の中国人の大部分は、自分の物質的な利益しか考えていない。主人公の女だけが例外で、彼女はかつて愛した男にとことん奉仕する。だが、ほかの人間に対しては、ドライにふるまうのだ。

それにしても、この映画に出てくる中国人の男は、みな芯を持たない情けない輩として描かれている。実際にそのとおりなのかは、小生のような外国人の老人にはわからない。





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