機根について:鈴木大拙「無心ということ」

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機根は根機ともいうが、それは「型」のことだと大拙は言う。「型」とは、ものの考え方のスタイルとか振る舞い方(或いは生き方)をさしている。その「型」つまり機根が、禅と真宗とでは違う。大拙は宗教感情の源というべき「無心」について、道元がそれを「心身脱落」と言い、真宗が「自然法爾」と言っていることを取り上げ、そういう違いは機根の相違から生まれるのだと言っている。

仏教をめぐる機根の相違の最たるものは、インド人と中国人の機根の相違だと大拙は言う。インド人は思弁が好きで、非常に抽象的なことを言う。それに対して中国人は、思弁より実践を優先する。「支那人は極めて散文的で日常的、人間的、事実の上の人間なのです。それであるから仏教が支那にはいって来ると、インド人のような光がなくなってしまう。よほど実質的になるのです」と大拙は言っている。ここで「光」というのは、思弁のことを指しているのである。その思弁的な要素が、中国の仏教では弱まり、体験重視の実践的なものになるというのである。

その中国でも、座禅をするのは学問をする人、すなわち文人だったという。それが日本に伝わると、武士が好んで座禅をするようになる。武士こそは、体験重視の実践的な生き方に徹する人種であるから、日本では、中国以上に実践的になったということである。

大拙自身も、禅を実践的に捉えるべきだという意見である。禅の境地は、思弁では体得できない。禅の境地すなわち無心は、思弁の結果としてではなく、全身を以て体験しなければわからぬ。その体験があってはじめて、それについて語ることができる。だがその体験は言語を超えたものである。だから禅の境地をめぐる言葉のやりとりは、支離滅裂に聞こえるのである。傍目には支離滅裂だが、それを実際に体験した者同士は、分かり合える。体験を共有しているからこそ、ちょっとした言葉の端から、相手の言っている意味が伝わってくるのである。禅は非常に対話的であると大拙は言う。だがその対話は、論理を重視するものではない。言葉のやりとりを通じて、互いに体験したことの内容を感得しあうのである。

禅と真宗では機根が違う。それに日蓮が加わると違いはさらに大きい。「日本でも日蓮宗の人はなかなか鼻息が荒く、闘争的できついところがあるように思います」と大拙は言っている。そうした闘争心がいまの日蓮宗徒にもあって、「お題目を唱えて団扇太鼓を叩いて勇ましく行進するのは、必ずしも排他心と言わなくても、一種闘争気質の動くのを見るといってよかろう」と言うのである。

これは、日蓮自身の気質にさかのぼるのであって、そうした日蓮自身の気質は、かれが漁師の出自であることに根差しているのだろうと大拙は推測している。漁師は、いわゆるプロレタリアである。そのプロレタリアとしての階級意識が日蓮を闘争的にしたのだろうと、大拙は推測するのである。そうした出自のもたらす性格に反抗気分があったのだろうというわけである。

大拙自身は、性格的に受け身なところがあるようで、無心ということをやかましく言う。無心とは、何事に対しても開かれている状態なので、どんなものでも受け容れる寛容性がある。ところが闘争的な日蓮には、そうした寛容性が欠けていたと大拙は思っていたようである。禅宗の坊主が托鉢に出かけると、日蓮宗のところでは門前払いを食らうのに、浄土宗や真宗のところではなにかしらものをもらえる、と言って、大拙は日蓮宗の不寛容を批判している。

以上は機根をめぐる話である。機根とは生き方のスタイルであるから、どれがすぐれて、どれが劣っているということではない。生き方のスタイルに優劣はないからである。どんなスタイルをとるにしても、宗教的な悟りの境地に至ることが肝要である。目的はみな同じく無心ということであるが、それを実現するための道筋は複数あってもよい、というのが大拙の基本的な考えだったように思える。





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