加藤周一の平安文学論:日本文学史序説

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加藤周一は平安時代を日本の歴史における最大の転換期と位置付けている。極端な言い方をすれば、平安時代を境にして、それ以前の日本とそれ以後の日本とに大別されるというのである。その差別を構成する一番大きな要素は言葉だという。奈良時代以前の日本語は八つの母音をもっていたのに、平安時代以降、今日とかわらぬ五つの母音に収束した。カナ文字の発明を核とする文化の発展があり、経済的・社会的な土台にも巨大な変化が生じた。その結果、今日にいたる日本文化の型のようなものが形成された。こうした見方は小生には意外にうつる。小生は、今日にいたる日本文化の型は室町時代に形成されたとみている。その最大の理由は、庶民が文化の最大の担い手となったのが室町時代だということである。だが加藤は、仏教の大衆化などを理由に、すでに平安時代に今日にいたる日本社会の基礎が作られたとみるのである。

文学についていえば、加藤は平安時代前期における菅原道真と紀貫之、平安時代後期における女房文学を平安文学を代表するものとして取り上げている。

平安時代前期は藤原氏が権力を集中させていく時代である。藤原氏以外の貴族は没落していった。紀貫之はそうした没落貴族に属する人間である。一方菅原道真は土器をつくる工人の出身であり貴族ではない。紀貫之を下降型のタイプとすれば菅原道真は上昇型のタイプである。もっとも道真は藤原氏によって破滅させられるのではあるが。その道真を加藤は悲劇の主人公といい、紀貫之を自分自身を笑って暮らすことのできる人物だったといっている。両者の文学的業績は、質の点では道真が数段上だが、後世への影響という点では紀貫之が圧倒的な優位を誇っている。紀貫之の編纂した古今集は、その後数百年の日本文学に巨大な影響を与えた。古今集は、万葉数とは全く違った美意識を日本文学に持ち込んだのだったが、その美意識がその後の日本文学の模範となったのである。一方、私的な文章として書かれた土佐日記は、とりあえず平安時代後期の女房文学に直接的な影響を与えたが、それにとどまらず、今日にいたる日本文学の一つの要素を規定し続けた。それは自分自身の日常の細事にこだわるという姿勢であり、そうした姿勢が、二十世紀の私小説の世界まで連綿と続いていると加藤はいうのである。

平安時代後期の日本文学は、源氏物語を頂点とする女房文学と「今昔物語」で代表される。女房文学の特徴は、宮廷という閉ざされた空間を舞台にして、恋とか日常の些事をテーマにしたもので、それこそ私小説の先駆者といえるものが多い。源氏物語には、一応全体的構想のようなものを認めることができるが、そうした構想を離れて、特殊な個別的出来事に関心を集中させるところが私小説風なのである。その源氏物語には、女房文学としてはめずらしく、仏教的な要素、とりわけ浄土思想がうかがわれると加藤は指摘している。もっともそれはこの世の中のはかなさを強調するための文飾のような形で触れられているにすぎず、思想的な深みを感じさせるものではないと見ているようだ。

一方、今昔物語のほうは、仏教の大衆化を反映するかのように、仏教思想を感じさせる内容の説話が多い。今昔物語の書き手は当時の知識人であって大衆の出身ではないが、あきらかに大衆に読み聞かせることを前提に書かれていると加藤はいう。その大衆を宗教的に捉えていたのは、真言・天台のほか浄土教であった。浄土教は彼岸への願望を中核にした教えだ。だが、今昔物語の世界では、彼岸での救済よりは、この世での成功のほうが重んじられている。因果応報の結果は彼岸において成就するより、この世において実現されることが重んじられたのである。

女房文学に戻ると、女房達は日記を書き残していた。面白いことに、「かげろふ日記」、「更級日記」、「讃岐典侍日記」、「紫式部日記」の作者は親戚同士だったということだ。「枕草紙」は、今日的感覚ではエッセー集だが、これも日付のない日記と考えてよい。これら日記類を通じて指摘できることは、自分らが属している狭い世界のなかで、日常の些事に異常にこだわるということであり、自分らに関係のない世界、つまり庶民の生活には一切関心を払わないということであった。しかも、部分が全体から独立にそれ自身のために語られるといった、きわめて些末なことに終始する視野の狭さも感じさせる。こうした視野の狭さは、二十世紀の私小説まで連綿とした伝統として続くわけである。なお、「和泉式部日記」はおそらく作り話で、作者も男か女か明らかでないという。






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